施しは指先から

作者は悩んでいた。今月の生活は厳しく、貯金を食いつぶし、来月の生活の見通しが立たないところにまできていた。売れない絵本作家。作品がまとまらない。作者は悩んでいた。

ふと唐突に、まるで玄関から踏み出す際に忘れ物があることを思い出すかのように、うさぎとかめをテーマとした弱肉強食の世界を描こうと思いついた。強いものが勝ち、弱いものは淘汰されるべきだ。幼少期からこの考えを植えつけることができれば、たとえ社会の荒波に揉まれようとも、タフで、知恵のある、優秀な世代は生き残る。この国の未来は明るい。

うさぎとかめは古くからの友人であった。付き合いが長いだけに互いの嗜好もそれなりに似たところはある。彼らはよく話をした。くだらないことから社会情勢から経済不安にいたるまで日が昇ってから沈むまで語り明かすこともあった。

ある日のことだ。いつものように何気ないことを話していると、かめは急に黙りこんだ。
「いったいどうしたっていうんだ?首をひっこめたりなんかして。ここには僕と君しかいないのに」
かめは甲羅の中でじっとしていた。うさぎは何かを語りかけようとしたが、かめが話し始めるのを待って黙っていた。水平線の向こうの雲が床にこぼしたミルクのようにじわじわと広がっていた。
「君にしか話さない」かめは言った。
「君にしか話さないから良く聞いてくれ。僕は君のことを本当の友達だと思っている」
うさぎは黙ってうなずいた。かめはちらりと横目でみた。初めて見たものを食べる前のほんの一瞬の躊躇いぐらい短く。
「僕はりすのことが好きなんだ」
「君が?」うさぎは驚いた。まさかかめが恋をするとはつゆほども考えなかったからだ。しかし、いつかはこんな話をすることがあるのかもしれないとも思っていた。社会情勢を憂うように。グローバル化を危惧するように。僕は恋をしたんだ、そんなふうに。
「そう、僕が」
「そうか、君が」
かめはまたちらりと横目でうさぎの顔を確認すると、首をひっこめた。きっと照れてしまってしかたないのだ。うさぎは鼻をぴくりとさせた。
「だとしたら君はどうするんだい」
「わからないんだ」甲羅の中からくぐもった声が聞こえてくる。
「正直なところ、僕はどうすればいいのかがわからない。こうやって君と会わないときはずっと甲羅の中でりすのことを考えてしまう。あれこれとくだらないことを考えるんだ。もちろん、何を話すかなんて星の数と同じくらい考えたさ。でもわからないんだ。実際、僕はどうしたらいいんだろう」
うさぎはすこしだけ考えを巡らせてみた。かめがりすに恋を?いったいどうなっているんだ?
「ねえ、冷静に考えてみなよ」うさぎはすこし取り澄ますように言った。
「君は何と言ってもかめであるし、彼女はどうあがいたってりすなんだ。君にはそれがわかるかい?」
甲羅の中から低い音がこぼれた。
「だとしたらこの恋が不釣り合いだってことぐらい手に取るようにわかるじゃないか」
「でも好きなんだ」かめは甲羅の中にこもったまま、吐き出すように言った。
「だとしたら」こうしよう。うさぎはすこしだけいらついていた。
「僕とかけっこをしようじゃないか。そして彼女にそれを見てもらおう。君が勝てばきっと彼女だって心ひかれるはずさ」
「でも」かめはやっと首を出すと、弱弱しく言った。
「でもそれだと君のほうが有利だと思うんだ。僕はなにせ走るのが得意ではないから」
「君はあの子に恋をしている。僕は不釣り合いだからやめろと言う。でも君は諦めない。だとしたら君は僕に勝る何かをもっていなきゃならない」強引で、おしつけがましいうさぎの態度にかめもたじろぐ。
「僕は泳ぎが得意なんだけれど」かめがそういうと、うさぎは意地の悪そうに笑った。
「彼女は走るのが得意だけれど、泳ぐのは不得意なんだ。君だって知っているだろう?泳げることが彼女にとって何の魅力になるんだい?」
すこしの間かめは空を見上げるようにじっとしていた。広がっていた雲は夏特有の入道雲に育ちつつあった。今日は夕立が降るのだ。それも、激しく。
「わかったよ」かめはうつむいて言った。
「僕は君とかけっこをする。彼女にそれを見てもらう」
「そう、それでいい。そしてこういうことはなるべく急いだ方がいい。わかるね?」
かめはちいさくうなずいた。
「そう、それでいい。だから明日にする、わかるね?」
かめはまたほんの少しだけうなずくと、とぼとぼと家に帰った。うさぎはその後ろ姿を見送ると、その姿が小さくなってしまってから、自慢の足で駆け抜けるように家に帰った。なにせ、今日は夕立が降るのだ。
それも、激しく。

その日、前日の夕立にも関わらず強い光で照らす太陽に乾かされ、大地は生まれたての子供の肌のようにきらきらとその光を細かく反射していた。絶好のかけっこ日和である。うさぎはすでに勝ち誇った気分だった。仮に前日の大雨で至るところに深い水たまりがあれば、たとえかめとはいえ油断は出来なかったからだ。
一方、もはやかめの現実は絶望そのものであった。昨日は雨脚が激しく打ち付ける川床でじっとただただこの雨が降り止まないことだけを祈っていた。もしかしたら明日のかけっこはなくなってしまうかもしれない。そう思いながら、うさぎにこのことを話したのは間違いだったのだと悔やんだ。ときには友人とはいえ話さない方がいいことだってあるのだ。社会情勢とは違う。これは間違いなく、完璧に、ただひとつの恋なのだ。僕は軽々しく口にすべきではなかったのだ。

かめはうさぎの体越しに樹の影から見守るりすの姿を見つけた。彼女はじっとこちらを見たまま時々思い出したように口の周りをもぐもぐと動かした。彼女が自分を見ているのか、それともうさぎを見ているのかはかめにはわからなかった。おい、見てみなよ、彼女がこっちを見ているぜ、そううさぎがけしかけてもかめは黙っていた

スタートの合図と同時に二匹は足を踏み出す。しかし、なんにせようさぎとかめのかけっこである。傍から見ても勝負は明らかであった。ものの数秒も経たぬうちにうさぎは遠くの丘を駆け上がっていた。かめにもはや勝ち目はなかった。

作者はここまでひといきで書き上げてしまうと、お気に入りのマグに入った冷え切ったコーヒーをすすりながら最後の場面を練り上げる。何より大切なのはクライマックスだ。このままうさぎが勝つだけでは面白みがない。何かインパクトがなければ。そう考えていると、そのうちうさぎとりすが結ばれるのも悪くない気がしてきた。小型陸上動物同士の駆け落ち。現実離れしているが、かめよりはましだ。それに勝者には褒美があるというのも社会学習としてとらえられる。作者はほくそ笑んでペンを手に最後の場面に取り掛かった。場面はゴールテープ寸前のうさぎである。

それがおかしいと気付くのに時間がかかったのは何故だかわからなかった。とにかく、うさぎがゴールしないのである。何度も何度もイメージ通りに手を動かすのだが、いっこうにうさぎはゴールしない。きっと疲れているのだ。ここ3日間は締め切りに追われてろくに食事も睡眠もとれていない。だが、ここが正念場なのだ。これを書き上げ、この国に明るい未来をもたらすのだ。

しかし、やはりうさぎはゴールしない。作者には何が起こっているのか全くわからなかった。そして、じっとうさぎの絵を見ているうちに妙なことに気が付いた。
うさぎが振り返っている。
そんな場面を描いた覚えはない。とにかく、ゴールさせるその後ろ姿しか僕は描いていないんだ、作者の頭は混乱したままであった。
「ねえ、聞こえているかい?」絵の中のうさぎはわかりきっていたかのように作者に語りかけてきた。本当に僕は疲れているのだ。
「ねえ、聞こえているんだろう?返事をしなよ」
「なんだい」作者は馬鹿らしく思いながらも自分の絵に語りかけた
「そう、それでいい」うさぎは納得したようにうなずくと、なだらかな地面の上にあぐらをかいた。赤と白に塗られたゴールテープを背にして。
「君はこのまま僕が勝つことを望んでいる、そうだね?」うさぎは言った。
「そう、僕はそれを望んでいる」そしてしばらく眠りにつきたいと思っている。
「でも僕はそれを望まない。何故だかわかるかい?」
「わからないな」本当にわからないのだ、わかるはずもない。
「そうだろうね。賢明な僕が御教授してあげるよ。いいかい、このまま僕が勝つとどうなると思う?君の国の子供たちはみんな僕のことを最低よばわりするんだ。そしてそれは何よりも恐ろしい。ときに子どもってやつらは大人よりも残酷なんだ。罪悪感がなければどんな罪だって許される場合がある。こと子供に関してはね。きっと僕らは檻の中でひどい虐待を受ける。子どもたちは僕を取り囲んで言うんだ、よわいものいじめ、ってね。皮肉なもんさ。彼らがしていることがその実態だなんて誰ひとり注意することすらできやしない。ときに子どもってやつらは大人よりも残酷なんだ。」僕は黙ってうさぎの話を聞いていた。マグカップの中のコーヒーから踏みならされた枯葉のようなにおいがした。
「ねえ、僕だってこんなこと言いたかないよ。でもしかたない。これが現実になる」
「現実になる」
うさぎは黙って僕の言葉を聞いた。鼻の先がぴくりとする。
「いいかい、良く聞きなよ。一度しか言わないんだからね。僕はこのかけっこを負ける」
「なんだって?」僕は驚いて聞き返す。うさぎがかめにかけっこで負ける?
「そして勝ったかめはりすとめでたく結ばれる」うさぎは赤い目を真っすぐそらすことなく僕に向けてくる。不思議なことに僕は目をそらすことができない。まるで何か強い力に惹きつけられるように動けないでいたのだ。そのことに気づかないくらい、僕はうさぎとずっと向き合っていたのだ。
「そしてこの話を読んだ子どもたちは思う。強い思いはときに常識を覆すってね」
「君はどうやって負けるつもりなんだい?」僕は聞き返すがうまく言葉にならない。口の中が渇いてしまっているのだ。
「さあ、そんなのどうだっていいよ」うさぎは本当にでうでもいいというような素振りで答えた。かめが勝てばいい。それだけ。
「とにかく、君は僕を勝たせることはできない。でも負け方ならどうにだってできる。君にはなんだってできる」
「わからないな。どうしてそうまでして負けにこだわる?将来がどうなるかなんて誰にだってわからないのに」
うさぎはあきれたように長い息を吐いて耳を折り曲げた。たぶん、ため息をついたのだ。
「いいかい、社会っていうのは柔順じゃないんだ、残酷なんだよ。強者に対して媚を売るくせにいつまでもそこに居座ることを許さないんだ。ときに強者は弱者以上に危ういんだよ。僕はそんな世界で生きていきたくはない。少なくとも、現状で満足しているよ。僕は走る。かめよりも速く」
「でも、負ける」僕はつぶやく。
「そう、負ける」うさぎが笑う。
わけがわからない。前例だってない。うさぎがかめに負けるだなんて話を書いて編集長は何というだろう?
「とにかく」うさぎはすくっと立ち上がると尾についた砂ぼこりを払って言った。
「あとはまかせたよ」
僕はこくっとうなずいた。うさぎは満足そうにまた振り向いてゴールテープを見つめていた。ときにはうさぎだって負けることがあるのだ。いつまでも勝者ではいられない。
「さて」身体の自由を取り戻し、血液を体内に循環させながら僕の脳は言葉の信号を発する。

「うさぎがかめに負けるにはどうしたらよいだろう?」

非日常的タクシー

本来であれば、こうした話には信憑性を伴わせるためにある程度の脚色はあるにせよ「事実」がとかく問われがちだ。けれど、どのような解釈がなされようともこの話はただひとつの「物語」であり、脚色のない「事実」だということを先に申し上げておく。ともすれば、事実の中に脚色を、脚色の中に現実を求めてしまう僕でさえ、上手く飲み込むことが出来ていない。

その日、ただひとつの予定もなかった僕はサスペンス小説のラストを読んでいた。大阪から帰郷する飛行機の中で迎えたクライマックスは、長崎の実家、隅にうっすらと埃を溜めた学習机の上に着陸し、やや硬めのソファベッドで完結した。前日のアルコールの残滓が心地良い。

滅多に鳴らない電話がなり、それが本来果たされるべき役割を思い出す。釣りの誘いを二つ返事で承諾し、着古したパーカーとくたびれたブルゾンに袖を通す。

「なるべく急ぐように」とだけ伝えられ、家から数十メートル離れた場所で僕はタクシーを捕まえた。オレンジ色の車体とハイブリッドエンジンであることを示す、見慣れたロゴを一瞥する。

長崎大学まで。そう告げてゆったりと座る。小柄な背中と寂しい頭髪が印象的な、運転手の後ろ姿をぼんやりと眺め、窓の外に視線を移す。

「学生、ティーチャー?」運転手が不意に尋ねる。
「ただの社会人です」と嫌味のない微笑みを携えて応える。どうして教師と尋ねず、英訳したのだろうか、「ただの」社会人は何をもって限定的な表現になり得たのだろうか、と考える。
そうか、と納得したように頷き運転手はブレーキペダルから足を離す。エンジン音の鳴らない車内の中で僕は訪れる沈黙に備えていた

「あなたは優しすぎる」
優しすぎる?僕が?
「どうしてでしょうか」
「最近の若いひとにありがちな、優しさが滲み出とるんだよ」と運転手はこちらを見ずに話しかける。バックミラーに映る表情を確認しようとするけれど、それは絶妙な角度で固定されていて、僕からは見えなかった。どこか非現実的な時間を過ごしている気がして、ともすれば村上春樹の冒頭にもなり得る展開を思う。スパゲティをしばらく食べていない。昨日のビールはどれだけ飲んだだろう、あれは国産だったはずだ。

「今の若いひとは弱いのか優しいのかは分からない。だけど、優し過ぎる。それでは女を支えては行けない」「そうかもしれません」そう応えつつ、男女の違いが染色体的な捉え方でなく、ありふれた感情論で諭されているのだと気づく。

くだらない、と思う。

京都大学の学者によると、ローランドゴリラのハーレムも弱体化しているらしい。つまりだ、今日のオスの弱体化は環境による影響が大きいということらしい」分かるか、と問われ僕は頷く。「だが、今の若者を育てたのは俺らの息子たちだ。そしてまた、あいつらも優し過ぎる。俺はよく孫を甘やかしながら、息子たちを未だに叱りつけるよ。嫁さんには咎められるがね。だが、駄目だ。どうしてもやってしまう。嫁の尻に敷かれるようでは駄目なんだよ。それが単なる建前だとしてもだ。俺はそう思う」少しばかり強引な右折の後で、ゴールデンウイークの渋滞の中、エンジン音のしない車内の饒舌な講義。ただひとりの聴衆はその優しさのため、聞き役に徹する。

大学の正門前に到着すると、つい説教してしまった、申し訳ないねと運転手は告げる。「いいえ、他人の意見に気づかされることが大切ですから。自分では環境に気づけないこともあります」僕が応えると、満足そうに頷きながら運転手は振り返った。人間が視線を絡める理由はふたつあるという。好意または敵意だ。これはどちらの視線だろうかと思う。そして、少なくとも聴衆の「優しさ」に甘えた論者に対して、僕はフィフティ・フィフティと評価した。

これが十分程度のタクシーでの会話である。そしてまた、これが全て「事実」であると記したとして、それが事実であることを知り得るのはまた、僕だけなのだ。

いつもの季節で逢いましょう

「冷やし中華始めました」という文字が、空腹の僕の目に飛び込むと、ああ、もうそんな時期かと思う。そう、23度目の「冷やし中華始めました」はやはり23度目も同様に、唐突に始まり予告もなく終わるだろう。

冷やし中華を扱う店の年間スケジュールには「冷やし中華始めます」の文字が期待と不安入り混じった文体で、枠からはみ出すくらいぶっきらぼうに書き散らされ、野菜の千切り加工工場で働く工員は繁忙期の訪れを微かに感じ、みずみずしさそのままに野菜たちをチルド冷凍する。卵麺の卸業者は昨今の博多細麺ブームに対抗すべく、あえて太麺で挑もうと画策を練り上げ、酸味の効いたつゆ作りの職人と試行錯誤する。

花火大会が行われるころ、夕方の露天で冷やし中華を食べながら、卒業を控える若い恋人たちは「夏だけだから」の言葉にセンチメンタルを感じ、色とりどりの野菜の盛り付けの様に花開く大型花火が打ち上がるころ、産声をあげる赤ん坊は冷やし中華と同じくして人生を始める。

きっとこれから10年、30年先も変わらず冷やし中華はひっそりと始まり、誰に気付かれるでもなく終わるだろう。そして、いずれ訪れる冷やし中華の終わりを少しだけ憂いながら、僕は初夏の訪れを予感させる夜風に吹かれていた。

誰かが誰かの審判

エアコンの効いた駅近くの喫茶店。注文されたアイスコーヒーは、日に照らされた僕らが流す汗のようにじんわりと結露を作る。テーブルの上を滑らせ、引きずられるようにして出来た少し歪な図形を紙ナプキンで拭う。

最近また書いてたりするんだろう、と友人が二つ目のガムシロップを入れながら僕の表情を伺う。
「書いてるって何を」
「何をってことはないだろう。いつぞやみたいな小説とかそういうのだよ、あれ、書いているんだろう」
赤く細いストローでカチリカチリとかき混ぜながら、彼は笑う。
「最近はそうでもないよ」
そう答えてから僕はグラスに口をつける。苦味のせいか暑さでぼんやりとしていた頭が冴えてくる気がする。

「上手くいかないんだ、何だか」
僕が呟くと、彼は要領が掴めていないような顔をした。昼寝している動物園の動物を眺める子供みたいだ、と思う。
「何というか、批評が怖いんだ」
そう言ってから僕はまたコーヒーを口に含む。氷が溶けてほんの少しだけ苦味が薄まっている。

しばらく考えるようにしてから、ああ、と彼は合点がいったように頷く。「ああ、そういうの、なんか分かるよ。昔さ、俺サッカーしていたんだけど。人数合わせるために審判をひとり決めなくちゃいけなくてさ。ほら、ゴールキーパーもハズレって感じだけどさ、審判ってもうまさにハズレじゃん。おみくじで言うところの『凶』みたいな。だから審判だけは絶対嫌だったね。でも、いまこうしてさ、周り見渡すと何だかいたるところに審判がいるような気がするんだよな。それぞれが自分の尺度でルールを決めていて、枠からはみ出せば即イエロー、みたいな」そういうの、多いよなと彼は独りごちる。

「昔はプレイヤーになりたくて仕方なかったのに、いまとなっては誰もが審判になろうとする。批評や批判を言える立場になりたくて仕方ない。その矢面に立ちたくない、と」そういうことだろう、と彼は僕の目を探る。上手く返事が出来ずに、僕はただ首を縦に振る

ふっと、力を抜くように椅子の背もたれにもたれてから、彼は笑った。店内に響くような声で笑うので、僕はふいに恥ずかしくなる。
「そんなことは気にしなくてもいい。大体、対したことはないからね。いわゆるレビューみたいなものの精度なんてたかが知れている。分かったような態度を振りまいている連中の口癖を知っているか
いや、知らないと答えると、甘く混ぜ合わされたコーヒーをぐっと飲んでから、にやりとして彼は言った。
「悪くない、だ。本質が見えていない連中は大体そういう評価をする。一定の評価はしているが其の実中身は何にも理解していない。みかけに騙されて、体面を繕うのに精一杯なだけさ」
Not bad. と口にしてから、彼はまた笑う。
「あまり深刻にならなくていいんだ。文章の中にさりげなく意味深な言葉を残しさえすれば、大抵の評価は『悪くない』になるよ」
「そして彼らは本質を評価できていない」
そういうこと、と彼は頷く。そしてちらりと隣の女性を横目にすると、小声で僕に話しかけてくる。
「この人にいま読んでいる本の感想を聞いてみようぜ」
「それで、どうするんだよ」
と聞いてからはっとする。テーブルの上を片付けてから、おもむろに彼女に近づく。長い髪を垂らしながら、文庫本を読みふけっているので表情は伺えない。美人なら良いのに、と思う。

それから10分ぐらい彼女の批評が続き、そろそろ時間だからと言ってから彼女は席を後にした。僕らはしばらくしてから顔を見合わせる。
「なあ、彼女どうだった」
彼が尋ねるので、僕は引き寄せられるように見惚れていた彼女のことを思いながら答える。

「悪くない」

日常とフィクション

スーパーマーケットに面した道路の歩行者用信号機が点滅を繰り返し、まさに切り替わらんとするころふたりの女の子がわっと駆け出していく。背格好がひどく似ていて僕は双子であるかもしれないと想像する。一方がもう一方の片手を引っ張るようにしている。すると、引っ張られるようにしていた片方の女の子が足をもつれさせ、車道の真ん中で転び、離されなかったままの腕が先に駆け出していた女の子を仰け反らせる。車の進行が始まるまでのわずかな時間で彼女たちは追いやられた鳥のように素早く車道から逃げ出す。

僕の目の端にピンク色の何かが入り、認識する前に一台のトラックがそれを踏みつけた。乾いたプラスチックの破裂音が道路に響くと、中から氷の固まりがいくつか出てきてそれが彼女たちどちらかの水筒だとわかる。ピンク色の破片が車道に散らばる様子を歩道の片隅で彼女たちはぼんやりと眺めていた。真夏のように暑い日差しが降り注ぎ、額に張り付いた髪の毛が光を反射している。
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壊れた水筒の欠片を見てお母さんはひどく悲しい顔をして私を叱りつけた。私は泣きながら、先週デパートで見かけた可愛い髪飾りはもう買ってもらえないと思った。あの子は一緒に謝ってくれるといったけれど、そんなことはもうどうでもよくて、ただ叱られるのが嫌だった。その日は黙って晩ご飯を食べてからすぐに寝てしまった。私は枕元で自分の心臓の音がひどく大きくなるのに気づいた。もう二度とピンク色の水筒は持たせてくれないのかも知れないと思うと、怖くなって、神様、二度と水筒を壊したりしないのでもう一度ピンク色の(出来れば前よりももっと可愛い)水筒をください、と祈った。

朝になると、私はひどく落ち込んだ。かわりに用意された水筒はお父さんの使いふるした銀色のステンレス製の水筒だった。もうその水筒を持って学校にいくことさえ嫌になって、私はお腹が痛くなればいいのにと思った。でも、そんなことをしてお医者さんに連れて行かれたら嘘だとお母さんに知られたら、もう私はご飯も食べさせてもらえなくなって、毎日給食だけしか与えられなくなるかもしれない。それはきっとすごくお腹が空くだろうから、私は我慢してその水筒を肩にかけた。昨日あんなに怒っていたから、お母さんはきっと許してくれないだろうと思った。でも、靴を履いて家を出るとき、後ろからお母さんが来週デパートにお父さんと行くから、そのときに新しい水筒を買いましょうね、と言ってくれた。私はすごく嬉しくなって、それはきっと昨日神様にお願いしたからだと思った。私は行ってきますと言って玄関を飛び出した。だって、きっと前よりも可愛いピンク色の水筒を買ってもらえると思ったから。銀色の水筒は少し重たくて全然可愛くなかったけれど、もしもまた転んじゃっても壊れたりはしないだろうと思った。水筒が私の腰の辺りにぶつかる度に、中から氷が鳴らすきれいな音が聞こえた。

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信号が青色に切り替わると、彼女たちは集められるだけの破片を拾い上げてから今度はゆっくりと歩き出した。僕はしばらく歩調を緩めてその様子を眺める。道路にはまだ溶けきれていない氷がいくつか転がっている。壊れた水筒の持ち主に訪れるこれからのエピソードを想像しながら、買い物袋をしっかりと、落としてしまわないように握りしめた。

検索された夏

夏の始まりは不器用な着こなしの僕を少しだけいらつかせる。特有の湿度と暑さはコンクリートの上、うだるような空気をたゆたわせる。ポケットの片方を重たくさせる携帯電話を手探りで取り出すと、ガラス面に付着した手汗を拭う。太陽の光に照らされた画面はスライドひとつ上手く反応してくれない。嫌な季節、そう考えて仕方ないはず。それなのに弱った電波で検索するキーワード、「夏 花火」を入力する。蝉の声も届かないビル街に無数の電波が放射され、希望や期待を込めた言葉をインターネットに届ける。微弱な電波であっても、ゆっくりとした速度であってもいずれ提示される結果。検索していたのはキーワードの先にあるもの。

清涼飲料水のCMのような恋を画面の外、カメラ越しに見ている。ひとつの季節が始まるたびに彼女の手を引く誰かは僕ではない誰か。色鮮やかに進化していく画質と裏腹に荒くなる現実のピクセル。色彩の足りない画素。鈍色の海としずかに揺れる波。夏を形容するための言葉をいくつもいくつも検索する。

打ち上げられた花火にそれほど多くの彩色が施されていなくとも、暗闇の中で灯る光ならば見上げるほどに美しい。荒々しい音は光の後に遅れて響き、それはどこか恐ろしくもある稲光とは違う心地よさを生み出す。ふたりの周りで零れる感嘆とため息が疲れた日々の毒素を含んで昇華される。濁った空気と火薬の匂いと白い煙とが混ざり合い、月の表面を濁らせると、いつもよりも淡くぼんやりとした月明かりの下で夏の終わりが動き始める。

サウンドタイピング

内線電話がけたたましく鳴る。雑な衝撃音が届かぬようそっと手に取り、申し訳程度の—しかし何かと重要視される—挨拶を口にする。受話音量が最適であれば良いのだけれど。依頼内容を都度反復し、今すぐに、と返答する。今すぐとは現時点からどの程度の時間までの猶予期間をさすのだろう。恐らく、そうしたことを考える時間は含まれないのだろうと考える。

いくつかの資料の印刷を隣でキーボードを打楽器のようにする同期に依頼し、キャビネットの中から古い資料を持ち出し小脇に抱える。手渡しされた資料を垣間見てから、うん、見やすい、ありがとう、と円滑さを保つためのフレーズを残して席を立つ。同期が文章をタイピングする前にはきっとディスプレイにいくつかの演奏記号が表示されていて、「快速に」であるとか「荒々しく」「激情的に」といった指示がなされているのだろう。僕よりも半音高いエンターキーの音が耳元から遠ざかる。全て黒鍵のように彩色されているからだろうか。調律の悪いスペースキーとエンターキーの寿命を思う。

エレベーターをじっと待ちながら、窓の外をふと見ると照りつける太陽で風景が溶けていくような、そんな気がしてくる。こうして高層階から外を眺めるひとは大抵地上を見下ろすので、何となく見上げてみる。きっと地上にいるときと空に対する距離感はそれほど変わらないのだろう。室内楽団が鳴らす電子音と不規則な打音が頭の中をぼんやりとさせる。

短い打ち合わせが終わり、フロアに戻る。ひとそれぞれに割り振られた演奏記号の中で、時折響く床面を叩くヒールのように高い音。キーボードがもしも打楽器だったなら、全ての音楽家は指揮することを諦めるだろうと思う。マウスのカチリ、という音の後で僕は目立たぬよう「歩くような速さ」で指摘された箇所の訂正を行う。恐らく僕のキーボードの中で最も寿命が短いと思われる「delete」キーを押しながら。