施しは指先から
作者は悩んでいた。今月の生活は厳しく、貯金を食いつぶし、来月
ふと唐突に、まるで玄関から踏み出す際に忘れ物があることを思い
うさぎとかめは古くからの友人であった。付き合いが長いだけに互
ある日のことだ。いつものように何気ないことを話していると、か
「いったいどうしたっていうんだ?首をひっこめたりなんかして。ここ
かめは甲羅の中でじっとしていた。うさぎは何かを語りかけようと
「君にしか話さない」かめは言った。
「君にしか話さないから良く聞いてくれ。僕は君のことを本当の友
うさぎは黙ってうなずいた。かめはちらりと横目でみた。初めて見
「僕はりすのことが好きなんだ」
「君が?」うさぎは驚いた。まさかかめが恋をするとはつゆほども
「そう、僕が」
「そうか、君が」
かめはまたちらりと横目でうさぎの顔を確認すると、首をひっこめ
「だとしたら君はどうするんだい」
「わからないんだ」甲羅の中からくぐもった声が聞こえてくる。
「正直なところ、僕はどうすればいいのかがわからない。こうやっ
うさぎはすこしだけ考えを巡らせてみた。かめがりすに恋を?いっ
「ねえ、冷静に考えてみなよ」うさぎはすこし取り澄ますように言
「君は何と言ってもかめであるし、彼女はどうあがいたってりすな
甲羅の中から低い音がこぼれた。
「だとしたらこの恋が不釣り合いだってことぐらい手に取るように
「でも好きなんだ」かめは甲羅の中にこもったまま、吐き出すよう
「だとしたら」こうしよう。うさぎはすこしだけいらついていた。
「僕とかけっこをしようじゃないか。そして彼女にそれを見てもら
「でも」かめはやっと首を出すと、弱弱しく言った。
「でもそれだと君のほうが有利だと思うんだ。僕はなにせ走るのが
「君はあの子に恋をしている。僕は不釣り合いだからやめろと言う
「僕は泳ぎが得意なんだけれど」かめがそういうと、うさぎは意地
「彼女は走るのが得意だけれど、泳ぐのは不得意なんだ。君だって
すこしの間かめは空を見上げるようにじっとしていた。広がってい
「わかったよ」かめはうつむいて言った。
「僕は君とかけっこをする。彼女にそれを見てもらう」
「そう、それでいい。そしてこういうことはなるべく急いだ方がい
かめはちいさくうなずいた。
「そう、それでいい。だから明日にする、わかるね?」
かめはまたほんの少しだけうなずくと、とぼとぼと家に帰った。う
それも、激しく。
その日、前日の夕立にも関わらず強い光で照らす太陽に乾かされ、
一方、もはやかめの現実は絶望そのものであった。昨日は雨脚が激
かめはうさぎの体越しに樹の影から見守るりすの姿を見つけた。彼
スタートの合図と同時に二匹は足を踏み出す。しかし、なんにせよ
作者はここまでひといきで書き上げてしまうと、お気に入りのマグ
それがおかしいと気付くのに時間がかかったのは何故だかわからな
しかし、やはりうさぎはゴールしない。作者には何が起こっている
うさぎが振り返っている。
そんな場面を描いた覚えはない。とにかく、ゴールさせるその後ろ
「ねえ、聞こえているかい?」絵の中のうさぎはわかりきっていた
「ねえ、聞こえているんだろう?返事をしなよ」
「なんだい」作者は馬鹿らしく思いながらも自分の絵に語りかけた
「そう、それでいい」うさぎは納得したようにうなずくと、なだら
「君はこのまま僕が勝つことを望んでいる、そうだね?」うさぎは
「そう、僕はそれを望んでいる」そしてしばらく眠りにつきたいと
「でも僕はそれを望まない。何故だかわかるかい?」
「わからないな」本当にわからないのだ、わかるはずもない。
「そうだろうね。賢明な僕が御教授してあげるよ。いいかい、この
「ねえ、僕だってこんなこと言いたかないよ。でもしかたない。こ
「現実になる」
うさぎは黙って僕の言葉を聞いた。鼻の先がぴくりとする。
「いいかい、良く聞きなよ。一度しか言わないんだからね。僕はこ
「なんだって?」僕は驚いて聞き返す。うさぎがかめにかけっこで
「そして勝ったかめはりすとめでたく結ばれる」うさぎは赤い目を
「そしてこの話を読んだ子どもたちは思う。強い思いはときに常識
「君はどうやって負けるつもりなんだい?」僕は聞き返すがうまく
「さあ、そんなのどうだっていいよ」うさぎは本当にでうでもいい
「とにかく、君は僕を勝たせることはできない。でも負け方ならど
「わからないな。どうしてそうまでして負けにこだわる?将来がど
うさぎはあきれたように長い息を吐いて耳を折り曲げた。たぶん、
「いいかい、社会っていうのは柔順じゃないんだ、残酷なんだよ。
「でも、負ける」僕はつぶやく。
「そう、負ける」うさぎが笑う。
わけがわからない。前例だってない。うさぎがかめに負けるだなん
「とにかく」うさぎはすくっと立ち上がると尾についた砂ぼこりを
「あとはまかせたよ」
僕はこくっとうなずいた。うさぎは満足そうにまた振り向いてゴー
「さて」身体の自由を取り戻し、血液を体内に循環させながら僕の
「うさぎがかめに負けるにはどうしたらよいだろう?」
非日常的タクシー
本来であれば、こうした話には信憑性を伴わせるためにある程度の
その日、ただひとつの予定もなかった僕はサスペンス小説のラスト
滅多に鳴らない電話がなり、それが本来果たされるべき役割を思い
「なるべく急ぐように」とだけ伝えられ、家から数十メートル離れた場所で僕はタクシーを捕まえた。オレンジ色の
長崎大学まで。そう告げてゆったりと座る。小柄な背中と寂しい頭
「学生、ティーチャー?」運転手が不意に尋ねる。
「ただの社会人です」と嫌味のない微笑みを携えて応える。どうし
そうか、と納得したように頷き運転手はブレーキペダルから足を離
「あなたは優しすぎる」
優しすぎる?僕が?
「どうしてでしょうか」
「最近の若いひとにありがちな、優しさが滲み出とるんだよ」と運
「今の若いひとは弱いのか優しいのかは分からない。だけど、優し
くだらない、と思う。
「京都大学の学者によると、ローランドゴリラのハーレムも弱体化
大学の正門前に到着すると、つい説教してしまった、申し訳ないね
これが十分程度のタクシーでの会話である。そしてまた、これが全
いつもの季節で逢いましょう
「冷やし中華始めました」という文字が、空腹の僕の目に飛び込む
冷やし中華を扱う店の年間スケジュールには「冷やし中華始めます
花火大会が行われるころ、夕方の露天で冷やし中華を食べながら、
きっとこれから10年、30年先も変わらず冷やし中華はひっそり
誰かが誰かの審判
エアコンの効いた駅近くの喫茶店。注文されたアイスコーヒーは、
最近また書いてたりするんだろう、と友人が二つ目のガムシロップ
「書いてるって何を」
「何をってことはないだろう。いつぞやみたいな小説とかそういう
赤く細いストローでカチリカチリとかき混ぜながら、彼は笑う。
「最近はそうでもないよ」
そう答えてから僕はグラスに口をつける。苦味のせいか暑さでぼん
「上手くいかないんだ、何だか」
僕が呟くと、彼は要領が掴めていないような顔をした。昼寝してい
「何というか、批評が怖いんだ」
そう言ってから僕はまたコーヒーを口に含む。氷が溶けてほんの少
しばらく考えるようにしてから、ああ、と彼は合点がいったように
「昔はプレイヤーになりたくて仕方なかったのに、いまとなっては
ふっと、力を抜くように椅子の背もたれにもたれてから、彼は笑っ
「そんなことは気にしなくてもいい。大体、対したことはないから
いや、知らないと答えると、甘く混ぜ合わされたコーヒーをぐっと
「悪くない、だ。本質が見えていない連中は大体そういう評価をす
Not bad. と口にしてから、彼はまた笑う。
「あまり深刻にならなくていいんだ。文章の中にさりげなく意味深
「そして彼らは本質を評価できていない」
そういうこと、と彼は頷く。そしてちらりと隣の女性を横目にする
「この人にいま読んでいる本の感想を聞いてみようぜ」
「それで、どうするんだよ」
と聞いてからはっとする。テーブルの上を片付けてから、おもむろ
それから10分ぐらい彼女の批評が続き、そろそろ時間だからと言
「なあ、彼女どうだった」
彼が尋ねるので、僕は引き寄せられるように見惚れていた彼女のこ
「悪くない」
日常とフィクション
スーパーマーケットに面した道路の歩行者用信号機が点滅を繰り返
僕の目の端にピンク色の何かが入り、認識する前に一台のトラック
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壊れた水筒の欠片を見てお母さんはひどく悲しい顔をして私を叱り
朝になると、私はひどく落ち込んだ。かわりに用意された水筒はお
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信号が青色に切り替わると、彼女たちは集められるだけの破片を拾
検索された夏
清涼飲料水のCMのような恋を画面の外、カメラ越しに見ている。
打ち上げられた花火にそれほど多くの彩色が施されていなくとも、
サウンドタイピング
内線電話がけたたましく鳴る。雑な衝撃音が届かぬようそっと手に
いくつかの資料の印刷を隣でキーボードを打楽器のようにする同期
エレベーターをじっと待ちながら、窓の外をふと見ると照りつける
短い打ち合わせが終わり、フロアに戻る。ひとそれぞれに割り振ら