施しは指先から

作者は悩んでいた。今月の生活は厳しく、貯金を食いつぶし、来月の生活の見通しが立たないところにまできていた。売れない絵本作家。作品がまとまらない。作者は悩んでいた。

ふと唐突に、まるで玄関から踏み出す際に忘れ物があることを思い出すかのように、うさぎとかめをテーマとした弱肉強食の世界を描こうと思いついた。強いものが勝ち、弱いものは淘汰されるべきだ。幼少期からこの考えを植えつけることができれば、たとえ社会の荒波に揉まれようとも、タフで、知恵のある、優秀な世代は生き残る。この国の未来は明るい。

うさぎとかめは古くからの友人であった。付き合いが長いだけに互いの嗜好もそれなりに似たところはある。彼らはよく話をした。くだらないことから社会情勢から経済不安にいたるまで日が昇ってから沈むまで語り明かすこともあった。

ある日のことだ。いつものように何気ないことを話していると、かめは急に黙りこんだ。
「いったいどうしたっていうんだ?首をひっこめたりなんかして。ここには僕と君しかいないのに」
かめは甲羅の中でじっとしていた。うさぎは何かを語りかけようとしたが、かめが話し始めるのを待って黙っていた。水平線の向こうの雲が床にこぼしたミルクのようにじわじわと広がっていた。
「君にしか話さない」かめは言った。
「君にしか話さないから良く聞いてくれ。僕は君のことを本当の友達だと思っている」
うさぎは黙ってうなずいた。かめはちらりと横目でみた。初めて見たものを食べる前のほんの一瞬の躊躇いぐらい短く。
「僕はりすのことが好きなんだ」
「君が?」うさぎは驚いた。まさかかめが恋をするとはつゆほども考えなかったからだ。しかし、いつかはこんな話をすることがあるのかもしれないとも思っていた。社会情勢を憂うように。グローバル化を危惧するように。僕は恋をしたんだ、そんなふうに。
「そう、僕が」
「そうか、君が」
かめはまたちらりと横目でうさぎの顔を確認すると、首をひっこめた。きっと照れてしまってしかたないのだ。うさぎは鼻をぴくりとさせた。
「だとしたら君はどうするんだい」
「わからないんだ」甲羅の中からくぐもった声が聞こえてくる。
「正直なところ、僕はどうすればいいのかがわからない。こうやって君と会わないときはずっと甲羅の中でりすのことを考えてしまう。あれこれとくだらないことを考えるんだ。もちろん、何を話すかなんて星の数と同じくらい考えたさ。でもわからないんだ。実際、僕はどうしたらいいんだろう」
うさぎはすこしだけ考えを巡らせてみた。かめがりすに恋を?いったいどうなっているんだ?
「ねえ、冷静に考えてみなよ」うさぎはすこし取り澄ますように言った。
「君は何と言ってもかめであるし、彼女はどうあがいたってりすなんだ。君にはそれがわかるかい?」
甲羅の中から低い音がこぼれた。
「だとしたらこの恋が不釣り合いだってことぐらい手に取るようにわかるじゃないか」
「でも好きなんだ」かめは甲羅の中にこもったまま、吐き出すように言った。
「だとしたら」こうしよう。うさぎはすこしだけいらついていた。
「僕とかけっこをしようじゃないか。そして彼女にそれを見てもらおう。君が勝てばきっと彼女だって心ひかれるはずさ」
「でも」かめはやっと首を出すと、弱弱しく言った。
「でもそれだと君のほうが有利だと思うんだ。僕はなにせ走るのが得意ではないから」
「君はあの子に恋をしている。僕は不釣り合いだからやめろと言う。でも君は諦めない。だとしたら君は僕に勝る何かをもっていなきゃならない」強引で、おしつけがましいうさぎの態度にかめもたじろぐ。
「僕は泳ぎが得意なんだけれど」かめがそういうと、うさぎは意地の悪そうに笑った。
「彼女は走るのが得意だけれど、泳ぐのは不得意なんだ。君だって知っているだろう?泳げることが彼女にとって何の魅力になるんだい?」
すこしの間かめは空を見上げるようにじっとしていた。広がっていた雲は夏特有の入道雲に育ちつつあった。今日は夕立が降るのだ。それも、激しく。
「わかったよ」かめはうつむいて言った。
「僕は君とかけっこをする。彼女にそれを見てもらう」
「そう、それでいい。そしてこういうことはなるべく急いだ方がいい。わかるね?」
かめはちいさくうなずいた。
「そう、それでいい。だから明日にする、わかるね?」
かめはまたほんの少しだけうなずくと、とぼとぼと家に帰った。うさぎはその後ろ姿を見送ると、その姿が小さくなってしまってから、自慢の足で駆け抜けるように家に帰った。なにせ、今日は夕立が降るのだ。
それも、激しく。

その日、前日の夕立にも関わらず強い光で照らす太陽に乾かされ、大地は生まれたての子供の肌のようにきらきらとその光を細かく反射していた。絶好のかけっこ日和である。うさぎはすでに勝ち誇った気分だった。仮に前日の大雨で至るところに深い水たまりがあれば、たとえかめとはいえ油断は出来なかったからだ。
一方、もはやかめの現実は絶望そのものであった。昨日は雨脚が激しく打ち付ける川床でじっとただただこの雨が降り止まないことだけを祈っていた。もしかしたら明日のかけっこはなくなってしまうかもしれない。そう思いながら、うさぎにこのことを話したのは間違いだったのだと悔やんだ。ときには友人とはいえ話さない方がいいことだってあるのだ。社会情勢とは違う。これは間違いなく、完璧に、ただひとつの恋なのだ。僕は軽々しく口にすべきではなかったのだ。

かめはうさぎの体越しに樹の影から見守るりすの姿を見つけた。彼女はじっとこちらを見たまま時々思い出したように口の周りをもぐもぐと動かした。彼女が自分を見ているのか、それともうさぎを見ているのかはかめにはわからなかった。おい、見てみなよ、彼女がこっちを見ているぜ、そううさぎがけしかけてもかめは黙っていた

スタートの合図と同時に二匹は足を踏み出す。しかし、なんにせようさぎとかめのかけっこである。傍から見ても勝負は明らかであった。ものの数秒も経たぬうちにうさぎは遠くの丘を駆け上がっていた。かめにもはや勝ち目はなかった。

作者はここまでひといきで書き上げてしまうと、お気に入りのマグに入った冷え切ったコーヒーをすすりながら最後の場面を練り上げる。何より大切なのはクライマックスだ。このままうさぎが勝つだけでは面白みがない。何かインパクトがなければ。そう考えていると、そのうちうさぎとりすが結ばれるのも悪くない気がしてきた。小型陸上動物同士の駆け落ち。現実離れしているが、かめよりはましだ。それに勝者には褒美があるというのも社会学習としてとらえられる。作者はほくそ笑んでペンを手に最後の場面に取り掛かった。場面はゴールテープ寸前のうさぎである。

それがおかしいと気付くのに時間がかかったのは何故だかわからなかった。とにかく、うさぎがゴールしないのである。何度も何度もイメージ通りに手を動かすのだが、いっこうにうさぎはゴールしない。きっと疲れているのだ。ここ3日間は締め切りに追われてろくに食事も睡眠もとれていない。だが、ここが正念場なのだ。これを書き上げ、この国に明るい未来をもたらすのだ。

しかし、やはりうさぎはゴールしない。作者には何が起こっているのか全くわからなかった。そして、じっとうさぎの絵を見ているうちに妙なことに気が付いた。
うさぎが振り返っている。
そんな場面を描いた覚えはない。とにかく、ゴールさせるその後ろ姿しか僕は描いていないんだ、作者の頭は混乱したままであった。
「ねえ、聞こえているかい?」絵の中のうさぎはわかりきっていたかのように作者に語りかけてきた。本当に僕は疲れているのだ。
「ねえ、聞こえているんだろう?返事をしなよ」
「なんだい」作者は馬鹿らしく思いながらも自分の絵に語りかけた
「そう、それでいい」うさぎは納得したようにうなずくと、なだらかな地面の上にあぐらをかいた。赤と白に塗られたゴールテープを背にして。
「君はこのまま僕が勝つことを望んでいる、そうだね?」うさぎは言った。
「そう、僕はそれを望んでいる」そしてしばらく眠りにつきたいと思っている。
「でも僕はそれを望まない。何故だかわかるかい?」
「わからないな」本当にわからないのだ、わかるはずもない。
「そうだろうね。賢明な僕が御教授してあげるよ。いいかい、このまま僕が勝つとどうなると思う?君の国の子供たちはみんな僕のことを最低よばわりするんだ。そしてそれは何よりも恐ろしい。ときに子どもってやつらは大人よりも残酷なんだ。罪悪感がなければどんな罪だって許される場合がある。こと子供に関してはね。きっと僕らは檻の中でひどい虐待を受ける。子どもたちは僕を取り囲んで言うんだ、よわいものいじめ、ってね。皮肉なもんさ。彼らがしていることがその実態だなんて誰ひとり注意することすらできやしない。ときに子どもってやつらは大人よりも残酷なんだ。」僕は黙ってうさぎの話を聞いていた。マグカップの中のコーヒーから踏みならされた枯葉のようなにおいがした。
「ねえ、僕だってこんなこと言いたかないよ。でもしかたない。これが現実になる」
「現実になる」
うさぎは黙って僕の言葉を聞いた。鼻の先がぴくりとする。
「いいかい、良く聞きなよ。一度しか言わないんだからね。僕はこのかけっこを負ける」
「なんだって?」僕は驚いて聞き返す。うさぎがかめにかけっこで負ける?
「そして勝ったかめはりすとめでたく結ばれる」うさぎは赤い目を真っすぐそらすことなく僕に向けてくる。不思議なことに僕は目をそらすことができない。まるで何か強い力に惹きつけられるように動けないでいたのだ。そのことに気づかないくらい、僕はうさぎとずっと向き合っていたのだ。
「そしてこの話を読んだ子どもたちは思う。強い思いはときに常識を覆すってね」
「君はどうやって負けるつもりなんだい?」僕は聞き返すがうまく言葉にならない。口の中が渇いてしまっているのだ。
「さあ、そんなのどうだっていいよ」うさぎは本当にでうでもいいというような素振りで答えた。かめが勝てばいい。それだけ。
「とにかく、君は僕を勝たせることはできない。でも負け方ならどうにだってできる。君にはなんだってできる」
「わからないな。どうしてそうまでして負けにこだわる?将来がどうなるかなんて誰にだってわからないのに」
うさぎはあきれたように長い息を吐いて耳を折り曲げた。たぶん、ため息をついたのだ。
「いいかい、社会っていうのは柔順じゃないんだ、残酷なんだよ。強者に対して媚を売るくせにいつまでもそこに居座ることを許さないんだ。ときに強者は弱者以上に危ういんだよ。僕はそんな世界で生きていきたくはない。少なくとも、現状で満足しているよ。僕は走る。かめよりも速く」
「でも、負ける」僕はつぶやく。
「そう、負ける」うさぎが笑う。
わけがわからない。前例だってない。うさぎがかめに負けるだなんて話を書いて編集長は何というだろう?
「とにかく」うさぎはすくっと立ち上がると尾についた砂ぼこりを払って言った。
「あとはまかせたよ」
僕はこくっとうなずいた。うさぎは満足そうにまた振り向いてゴールテープを見つめていた。ときにはうさぎだって負けることがあるのだ。いつまでも勝者ではいられない。
「さて」身体の自由を取り戻し、血液を体内に循環させながら僕の脳は言葉の信号を発する。

「うさぎがかめに負けるにはどうしたらよいだろう?」