非日常的タクシー

本来であれば、こうした話には信憑性を伴わせるためにある程度の脚色はあるにせよ「事実」がとかく問われがちだ。けれど、どのような解釈がなされようともこの話はただひとつの「物語」であり、脚色のない「事実」だということを先に申し上げておく。ともすれば、事実の中に脚色を、脚色の中に現実を求めてしまう僕でさえ、上手く飲み込むことが出来ていない。

その日、ただひとつの予定もなかった僕はサスペンス小説のラストを読んでいた。大阪から帰郷する飛行機の中で迎えたクライマックスは、長崎の実家、隅にうっすらと埃を溜めた学習机の上に着陸し、やや硬めのソファベッドで完結した。前日のアルコールの残滓が心地良い。

滅多に鳴らない電話がなり、それが本来果たされるべき役割を思い出す。釣りの誘いを二つ返事で承諾し、着古したパーカーとくたびれたブルゾンに袖を通す。

「なるべく急ぐように」とだけ伝えられ、家から数十メートル離れた場所で僕はタクシーを捕まえた。オレンジ色の車体とハイブリッドエンジンであることを示す、見慣れたロゴを一瞥する。

長崎大学まで。そう告げてゆったりと座る。小柄な背中と寂しい頭髪が印象的な、運転手の後ろ姿をぼんやりと眺め、窓の外に視線を移す。

「学生、ティーチャー?」運転手が不意に尋ねる。
「ただの社会人です」と嫌味のない微笑みを携えて応える。どうして教師と尋ねず、英訳したのだろうか、「ただの」社会人は何をもって限定的な表現になり得たのだろうか、と考える。
そうか、と納得したように頷き運転手はブレーキペダルから足を離す。エンジン音の鳴らない車内の中で僕は訪れる沈黙に備えていた

「あなたは優しすぎる」
優しすぎる?僕が?
「どうしてでしょうか」
「最近の若いひとにありがちな、優しさが滲み出とるんだよ」と運転手はこちらを見ずに話しかける。バックミラーに映る表情を確認しようとするけれど、それは絶妙な角度で固定されていて、僕からは見えなかった。どこか非現実的な時間を過ごしている気がして、ともすれば村上春樹の冒頭にもなり得る展開を思う。スパゲティをしばらく食べていない。昨日のビールはどれだけ飲んだだろう、あれは国産だったはずだ。

「今の若いひとは弱いのか優しいのかは分からない。だけど、優し過ぎる。それでは女を支えては行けない」「そうかもしれません」そう応えつつ、男女の違いが染色体的な捉え方でなく、ありふれた感情論で諭されているのだと気づく。

くだらない、と思う。

京都大学の学者によると、ローランドゴリラのハーレムも弱体化しているらしい。つまりだ、今日のオスの弱体化は環境による影響が大きいということらしい」分かるか、と問われ僕は頷く。「だが、今の若者を育てたのは俺らの息子たちだ。そしてまた、あいつらも優し過ぎる。俺はよく孫を甘やかしながら、息子たちを未だに叱りつけるよ。嫁さんには咎められるがね。だが、駄目だ。どうしてもやってしまう。嫁の尻に敷かれるようでは駄目なんだよ。それが単なる建前だとしてもだ。俺はそう思う」少しばかり強引な右折の後で、ゴールデンウイークの渋滞の中、エンジン音のしない車内の饒舌な講義。ただひとりの聴衆はその優しさのため、聞き役に徹する。

大学の正門前に到着すると、つい説教してしまった、申し訳ないねと運転手は告げる。「いいえ、他人の意見に気づかされることが大切ですから。自分では環境に気づけないこともあります」僕が応えると、満足そうに頷きながら運転手は振り返った。人間が視線を絡める理由はふたつあるという。好意または敵意だ。これはどちらの視線だろうかと思う。そして、少なくとも聴衆の「優しさ」に甘えた論者に対して、僕はフィフティ・フィフティと評価した。

これが十分程度のタクシーでの会話である。そしてまた、これが全て「事実」であると記したとして、それが事実であることを知り得るのはまた、僕だけなのだ。