誰かが誰かの審判

エアコンの効いた駅近くの喫茶店。注文されたアイスコーヒーは、日に照らされた僕らが流す汗のようにじんわりと結露を作る。テーブルの上を滑らせ、引きずられるようにして出来た少し歪な図形を紙ナプキンで拭う。

最近また書いてたりするんだろう、と友人が二つ目のガムシロップを入れながら僕の表情を伺う。
「書いてるって何を」
「何をってことはないだろう。いつぞやみたいな小説とかそういうのだよ、あれ、書いているんだろう」
赤く細いストローでカチリカチリとかき混ぜながら、彼は笑う。
「最近はそうでもないよ」
そう答えてから僕はグラスに口をつける。苦味のせいか暑さでぼんやりとしていた頭が冴えてくる気がする。

「上手くいかないんだ、何だか」
僕が呟くと、彼は要領が掴めていないような顔をした。昼寝している動物園の動物を眺める子供みたいだ、と思う。
「何というか、批評が怖いんだ」
そう言ってから僕はまたコーヒーを口に含む。氷が溶けてほんの少しだけ苦味が薄まっている。

しばらく考えるようにしてから、ああ、と彼は合点がいったように頷く。「ああ、そういうの、なんか分かるよ。昔さ、俺サッカーしていたんだけど。人数合わせるために審判をひとり決めなくちゃいけなくてさ。ほら、ゴールキーパーもハズレって感じだけどさ、審判ってもうまさにハズレじゃん。おみくじで言うところの『凶』みたいな。だから審判だけは絶対嫌だったね。でも、いまこうしてさ、周り見渡すと何だかいたるところに審判がいるような気がするんだよな。それぞれが自分の尺度でルールを決めていて、枠からはみ出せば即イエロー、みたいな」そういうの、多いよなと彼は独りごちる。

「昔はプレイヤーになりたくて仕方なかったのに、いまとなっては誰もが審判になろうとする。批評や批判を言える立場になりたくて仕方ない。その矢面に立ちたくない、と」そういうことだろう、と彼は僕の目を探る。上手く返事が出来ずに、僕はただ首を縦に振る

ふっと、力を抜くように椅子の背もたれにもたれてから、彼は笑った。店内に響くような声で笑うので、僕はふいに恥ずかしくなる。
「そんなことは気にしなくてもいい。大体、対したことはないからね。いわゆるレビューみたいなものの精度なんてたかが知れている。分かったような態度を振りまいている連中の口癖を知っているか
いや、知らないと答えると、甘く混ぜ合わされたコーヒーをぐっと飲んでから、にやりとして彼は言った。
「悪くない、だ。本質が見えていない連中は大体そういう評価をする。一定の評価はしているが其の実中身は何にも理解していない。みかけに騙されて、体面を繕うのに精一杯なだけさ」
Not bad. と口にしてから、彼はまた笑う。
「あまり深刻にならなくていいんだ。文章の中にさりげなく意味深な言葉を残しさえすれば、大抵の評価は『悪くない』になるよ」
「そして彼らは本質を評価できていない」
そういうこと、と彼は頷く。そしてちらりと隣の女性を横目にすると、小声で僕に話しかけてくる。
「この人にいま読んでいる本の感想を聞いてみようぜ」
「それで、どうするんだよ」
と聞いてからはっとする。テーブルの上を片付けてから、おもむろに彼女に近づく。長い髪を垂らしながら、文庫本を読みふけっているので表情は伺えない。美人なら良いのに、と思う。

それから10分ぐらい彼女の批評が続き、そろそろ時間だからと言ってから彼女は席を後にした。僕らはしばらくしてから顔を見合わせる。
「なあ、彼女どうだった」
彼が尋ねるので、僕は引き寄せられるように見惚れていた彼女のことを思いながら答える。

「悪くない」