祭り

祭り囃子の音が閉め切られた窓のすぐ側から聞こえてくるほど近い場所から、酔いどれたままに打ち込んでみる。こういうときは面白いか面白くないかの二極化だろうとは思う。けれど、折角だから特に考えもしないまま
瞬間の思いを言葉にしてみるのは「筆者として」面白いかもしれない。

定時後の英会話研修を終え、時計の針が8時半を示す頃に会社を出る。10分ほど歩き家に近づくにつれて、祭り囃子の囃し立てる音やタバコを燻らせる若者を見かけるようになる。綿菓子やフランクフルト、そうした文字が闇の中でひときわ目立つようになると「夏祭り」という言葉が妙に心に響いてくる。お小遣いという制限のもとで「自分自身の最適欲求を満たすため」の日々が遠ざかってしまったことを知る。近くのコンビニで程よく酔えるだけの酒を買い、狭いワンルームでソファに横たわりながら太鼓の絶え間ない音に耳を澄ませる。

スマートフォンをいじくり、まとめサイトで見かけた出産・分娩の動画をグラス片手に眺める。「グロい」「見るんじゃなかった」という言葉とは裏腹に生命の誕生に感動する自分に気づくと、恐らく妊婦ではなくその子供や観察している第三者の心境で捉えているのだと分かる。痛みほど他人に共感しえないものはないからだろうか。

ここ数日仕事に追われ、気がつけばひとりきりの部署の片隅で坂本九の「心の瞳」を聴きながらディスプレイと向き合っている現状を鑑みると、他人の感情を推し量るほどの余裕を持ち得ていなかったことに思い至り、反省の弁を込めて執筆。酔えば酔うほどに言葉にならない独り言をひたすらに打ち込む。明日の朝になれば訪れる恥ずかしさを少しだけ想像しながら、徐々に眠りに近づいていく。

目に映る風景イコール

夜8時の定食屋には温かい夕食を待ち望む人たちが集まる。TVもラジオもない、電子音化されたいつかのヒットチャートだけが申し訳程度に流れる場所。対面がセパレートされたカウンターといくつかのテーブル席には、家族連れや学生、仕事終わりのOLや疲れきった顔でお茶を催促する中年が散り散りに座る。和気藹々と話に花を咲かせるグループや、注文の料理が出てくるまでフリックとタップ入力を繰り返し、液晶画面に指を滑らせる人、背表紙が擦れてタイトルが不鮮明な古本に読みふける老人、電話先の相手に謝罪する若い社会人がいる一方で、職場の人間関係を通話口に愚痴る巻き髪の女の子。種々雑多のサラダボウル。

食事が済んだ後もテーブルから動かないカップルは、向かい合い無言のままスマートフォンを操作する。流れてくる軽快な電子音からそれがゲームであることを容易に想像できる。会話のないふたりきりの空間。間には食べ残された野菜の残骸と割り目の雑な割り箸。湯気の立たない茶碗とスマートフォン。ハイスコアが繋ぐひとところの愛情と安心感。

斜向いでは食事することに興味を示さない男の子が、箸を振り回しながら戦隊ヒーローを真似てイスの上で飛び跳ねる。会話に夢中な両親は気にもかけない。根気よく早朝に備えて毎日を過ごした子供たちだけに見えたヒーローたちの活躍も、HDDに録画され見逃されることはなくなった。24時間好きなときに好きな場所で世界を救う。あなたの生活に合わせた世界平和。

そんな心の居心地の悪さ全てを飲み込んでしまう、温かい夕食をひたすら待ち望む。白いシャツにソースが飛びかからぬよう神経質になる僕が。

確かに存在した記録とおぼろげながら残る記憶

環状線の電車に乗り込むたびに、ふと昔のことを思い出す。それがいつのことだったかを確かには思い出せないものの、少なくともそれほど遠い頃の記憶ではないだろう。「カンジョウセン」とはつまり「感情線」のことなのだろうと解釈していた。文学的な表現か何かだろうかと考え、点でなく線で繋がるもの、喜怒哀楽は都度変遷していくようなものであるから、どこかで繋がるその様を表現しているのだろうと思っていた。後に、手相の類いではないかとも穿ったけれど、なんてことはない電車の沿線であることを知るのは、それから随分経ってからだった。当時は疑問を検索する前に噛み砕き、独自の解釈を加えることが多かったせいだろうと思う。語感を基にして知り得る語彙を当てはめていくことに熱中していた。

そうしたほとんど意味のないようなことを覚えていながら、つい先日酒を呷りながら語ったはずの話のほとんどはまるで思い出すことができない。ともすれば、仕事に関わる重要な話の一部でさえ語られていたかもしれない、にも関わらず。今後関わっていく新たな業務についての噛み砕かれた説明や、今に至るまでの簡単な所感、とりとめのない雑談、笑い声、混み合う店のトイレを避けて公園へ向かう足取り。ひとつひとつをゆっくりと探り出すように思い起こす。皿の上には冷めたパプリカ。二つ並んだグラスを満たすハイボール。細く整えられた汚れたおしぼり。浮かび上がる風景の中でも音声だけが再現性を失う。視覚的な情報は瞼を閉じることで遮断することが出来るのに、音だけは意識的に遮断することさえままならない。それなのに音の記憶が映像の記録ほど鮮明でないのはなぜだろう。遮断できることほど整理する機会が多いからだろうか。

店を移動し、歓楽街の中をどこへ行くのかも知らされないままに歩く。落ち着いた店内には和服に着飾られた女性が静かに佇み、僅かに口角を上げている。しっくりとくるとはこういうことなのだろう。違和感のない雰囲気が適度に緊張感を与える。他愛無い話を搔い摘んでは上品に笑い、ウィスキーの水割りをそっとステアする。力んでいた肩の力が弛緩していくのはアルコールのせいだろうか、それとも気品ある女性と話すことによる安心感のせいだろうか。分からないまま身体はほのかに暖まり、室内の適度に冷えた空気が心地よく感じる。

帰り際、渡された紙袋の中は確かめないままに店を出る。ひとりきり歩く金曜日の夜道には、ワイシャツの後ろ姿ばかりがやけに目立つ。街を染めるネオンの通りをゆっくりと進み、青やオレンジに染まる白い布地に甘ったるい声が塗り重ねられると、光沢を失った革靴が不規則に運動を変化させる。一つの街に幾多の靴音と人数分の物語。語られることがなければそれらは全て翌朝の目覚めとともに灰燼に帰する。そして僕はそれらのわずかな塵を掬い上げては、文字に起こす。紙袋に納められた洋菓子の甘い匂いとグラスを満たす安物の酒、連続再生される音楽に耳を澄ませながら。