オブジェとしての彼女

 ふとしたときに美術館へ足を運ぶ。隣に彼女がいたのなら、例えば手をつなぎながら目の前の作品のひとつひとつについて互いに感想を交わすだろうか、と考える。彼女ならどう評するだろうか、と。現実的でない、と切り捨てるだろうか。それともただただ無言のままうなずいたりするのだろうか。ひと一人分のエスカレータで手すりを掴みながらふと思う。
 
展示されていたのは彫刻の作品ばかりで、中には古めかしくブロンズで作り上げられ、時間とともに酸化して独特の緑色へと変色した人物像や、木を削り上げられたオブジェ、金属の無機質さと特有の精巧さで魅了するものがあった。ひとしきり観ていると、あるオブジェに目が留った。規則的でありながら不均一な楕円形で削られた、直径2mはあろうかという木の幹で、中は空洞になっていた。その幾多の楕円形の連なりによって向こう側を見通すことが出来る。空洞であることに何かしらの意味が込められているのかもしれない。けれど、僕にはそれが何かが分からなかった。ただひとつ、空虚である、ということがひとつの意味として成り立つということだった。空であることを証明するすべは、それを覆う容器が必要になる。容器が無くてはそれが空虚であることを示すことが出来ない。僕らはそうして何もかもにも名前をつけている。空気、あるいは存在しなければ真空、囲えば空。記号として共有できないものを探すこと、それは個人の感性かもしれない。けれど、もしそれが完全に共有しあえないとして、どうして芸術の中に何かを見いだそうとしているのだろう。そうした自己矛盾について考えることが僕は好きだ。決して辿り着かない思考の果てを目指して延々と彷徨う。
 
思考の途中、そこには彼女がいる。しばらく佇み、僕が近づくとやがて離れ、けれど視線の先からは消えない。逆光に立ちすくむようにする彼女の姿は輪郭でしか捉えられない。僕はそれが彼女だと分かる。肩から腕にかけて流れる曲線、胸の膨らみ、綺麗なカーブを描く腰から太もも、ふくらはぎにかけてのライン。ひとつひとつは目を閉じていても描くことが出来る。ただひとつ、彼女がそのときどんな表情をしているのか、それだけが上手く描けなかった。想像の中の彼女はいつでも輪郭だけの存在で、白い大理石が放つ光のように、内側からぼんやりと光っていた。