子供と大人

賢いということは子供であるということ。成長することが賢さを生み出すのではなく、むしろ大人になるにつれてひとは賢さを失う。

安物の酒を飲みながら読んでいたにも関わらず、酔い気が醒めてしまう言葉の連続。いままでのどんな休日よりも刺激的な知識の貯蔵は、イタリアンレストランのこじんまりとしたテーブル席で行われた。ポタージュスープとドリア、程よくしなびたほうれん草のソテーを添えて。

賢くなりたいと願うことは、賢くないことを自負しているのであってそれは「知る」という客観的な評価においては「賢さ」の表れではある。けれど往々にして他人とその評価について共有あるいは再評価を行うことは難しい。すなわち主観の発生を意味するからだ。そこには絶対的な知識保有の証明が必要となる。それを達成できた人間は少なくとも現実の世界では見受けられない。

いわゆる天才だろうと思う。

しかしそうした人間であって唯一生きることが出来るのが「小説」であり、フィクションであろうと思う。いかなる障壁も「言語」という共通の記号を認識し合うことが出来るのであれば、そこには望まれた人間を誕生させることが出来る。ただ一つの条件は、それを表現する著者の技巧と能力によるものだろう。またしてもそこには評価が生まれ、絶え間ないジレンマの発生を予感させる。

森博嗣先生の作品に出会い、こうした天才の小説内における存在についての説明が細かな描写とともになされる度、彼こそが天才なのではないかと思わずにはいられない。そこには想像による補完と飛躍的発想による創造が彼の作品と彼の「灰色の脳細胞」の中に介在しているからに他ならない。これを羨望せずにいられないのは一読者の宿命ではないかと思う。

生死について思考され言語化される様々な表現の中にあって、いずれの論も「殺人や自死は必ずしも否定されるべきものではない」というテーマを含んでいる。否定的立場の論者はそれらが社会という枠組みの中に存在する以上、その調和を乱すべきではないと考え、説いている。しかし、社会を作り出しその中で生きることを選択できるのは、社会の中で生活を営みながら「自己の精神が他人に脅かされることを積極的に望まない」者だけ。つまり、この世界に生まれて間もなくの人間には追いつくことの出来ないルールによる。自由の束縛による社会の安寧を計るのは、常に大人であるということ。逸脱し飛躍的な行動を害とする者。

子供だけがその縛りに捕われない。大人だけがその行動に意味を見いだそうとする。

縛られた世界の作られたルールに沿って。

そう考えてみると、大人が作り出した「常識」と呼ばれる枠組みとは無関係の思考で生きることが出来る「子供」という存在は、確かに賢いと思える。彼らには「常識」という作られた概念はない。生まれて間もなく「感情」を訴える手段を知り、説明のなされない「言語」という記号を想像力により習得し、世界のあらゆる事象をありのままにインプットする。大人だけがその意味や有意義さを自己の解釈により評価し、排除する。それらは成長による「知識」と呼ばれる常識の取得によるもの。そうであるならば、果たして大人は本当に賢いと呼べるのだろうか。それはあくまでも社会における拘束された条件の中における共通の認識でしかないのではないか。

彼はそうした禅問答を作品の中で幾度となく繰り返す。我々読者はその一部分に残される「理解しうる思考回路」を自己の中にトレースし、咀嚼し、吸収しようとする。そこにはただ「知りたい」という知識欲しかない。

生命が誕生するとして、先に存在するのは精神だろうか、肉体だろうか。そんなことをぼんやりと考えてみる。あるいはこうした新種の知識を貯えることで、僕は賢さを少しずつ失っているのだろうか。それはまるで二律背反の様に。途方もなく思考され続ける、日曜日の夜。