花火

今日は淀川で花火大会が行われるということで、これだけは近場であったことを幸運に思わずにはいられないのだけど、嬉々として家を出た。確か昨年はそれほど側には近づかずに、沿道の側で建物の後ろで咲く花火を見ていたと思う。今年はより近づいて、いっそ点火台が見えるところまで、と意気込む。

今夏は例年にないくらいの猛暑であるから、家を出てものの数分でTシャツが身体にへばりつく。憂鬱なことは全部夜の海に脱ぎ捨てて、と桜井さんの歌声を思い出す。浴衣に彩られた女性の後ろ姿を追いかけるようにして会場へ向かう足取りはそれでいて軽い。

1 時間前だというのに既に会場には今か今かと待ちわびる人で埋め尽くされていた。淀川の対岸に架かる高速道路と東海道本線の側で、暮れかかる夕日の明かりを頼りに本を読む。犯人を追いつめるクライマックスのシーンのあたりでしおりを挟み、しばらくすると先に光が届き、後から音が胸の辺りを震わせるようにして響いてきた。見上げるといくつかが打ち上げられていて、けれどそれらの形作られた花は架橋に遮られて良くは見えなかった。この場所を選ぶべきではなかったと思う。いくつかの花火をそのままやり過ごしてから、なぜだか妙に落ち着かなくなる。そうして、あれほどまで楽しみにしていたのにも関わらず、飽きが訪れた。一足早く。

帰ろうとすると、同じように帰路につく人たちが目立つことに気づく。もしかしたらどこかに適当なスペースが見つかるかもしれない。そう思い、集団とは逆の進路を進む。新しい希望で上塗りすることは、気持ちの誤摩化しだろうか、それとも新たな欲求の開発なのだろうか。

遮蔽物のない花火の形は想像以上に丸く、大きく、鮮やかだった。その軌跡が螺旋を描くように闇の中を昇っていく様子を見ながら、ピストルのように筒の穴の中に刻まれた螺旋の溝を想像する。そうした構造の一手間あるいは工夫が上昇する火薬に安定性をもたらしているのだろう。開く瞬間の円形が重力によりやや楕円形に近づき、いくつかの花火は瞬間消えると別の火薬に点火し彩りをかえ、闇の中を縦横無尽にさまよい、散った。そうした繰り返される動きは目で追いながら見た経験のある何かに置き換えようと考えさせられる。花、生物、無生物、あるいはキャラクタ。想像の追いつかないものだけがそれが「花火」としての目的を満たす。

全ての光には演出が施され、計画的な打ち上げ順が事細かに決められているのだろう。集団はやがて訪れる「終わり」が 連発的でいて「これまで以上に壮大なもの」であることを期待しないではいられない。何度も繰り返された「終わり」を目の前にしながら、さらなる「終わり」 を期待するのはなぜだろう、と思う。いや、むしろ期待しているのは「始まり」であるからかもしれない。散る花は美しい、とは想像していないのだろう。だから、瞬間の命を半永久的に保存する技術を手にして、その造形をメモリに、信号に置き換えていく。時間の流れを無視すれば、媒体の中で命は生き続けるのかもしれない。おそらくはそれを認識できる誰かがいる限り。高架下で見上げながら、反響する轟音が身体を文字通り震わせる。

ひとりきりの視線は見ず知らずの人々のそれと交錯しては解け合うことなく散開し、まもなく伏せられた。空を見上げることはそれほど多くない。伏し目がちな帰り道はいつもよりもゆっくりと家路へ向かう僕の足先を見つめ、ふとしたときに思い出す夏の星座を探させた。火薬の匂いと誰かが吐き出した紫煙の煙たさを思い出しながら。