確かに存在した記録とおぼろげながら残る記憶

環状線の電車に乗り込むたびに、ふと昔のことを思い出す。それがいつのことだったかを確かには思い出せないものの、少なくともそれほど遠い頃の記憶ではないだろう。「カンジョウセン」とはつまり「感情線」のことなのだろうと解釈していた。文学的な表現か何かだろうかと考え、点でなく線で繋がるもの、喜怒哀楽は都度変遷していくようなものであるから、どこかで繋がるその様を表現しているのだろうと思っていた。後に、手相の類いではないかとも穿ったけれど、なんてことはない電車の沿線であることを知るのは、それから随分経ってからだった。当時は疑問を検索する前に噛み砕き、独自の解釈を加えることが多かったせいだろうと思う。語感を基にして知り得る語彙を当てはめていくことに熱中していた。

そうしたほとんど意味のないようなことを覚えていながら、つい先日酒を呷りながら語ったはずの話のほとんどはまるで思い出すことができない。ともすれば、仕事に関わる重要な話の一部でさえ語られていたかもしれない、にも関わらず。今後関わっていく新たな業務についての噛み砕かれた説明や、今に至るまでの簡単な所感、とりとめのない雑談、笑い声、混み合う店のトイレを避けて公園へ向かう足取り。ひとつひとつをゆっくりと探り出すように思い起こす。皿の上には冷めたパプリカ。二つ並んだグラスを満たすハイボール。細く整えられた汚れたおしぼり。浮かび上がる風景の中でも音声だけが再現性を失う。視覚的な情報は瞼を閉じることで遮断することが出来るのに、音だけは意識的に遮断することさえままならない。それなのに音の記憶が映像の記録ほど鮮明でないのはなぜだろう。遮断できることほど整理する機会が多いからだろうか。

店を移動し、歓楽街の中をどこへ行くのかも知らされないままに歩く。落ち着いた店内には和服に着飾られた女性が静かに佇み、僅かに口角を上げている。しっくりとくるとはこういうことなのだろう。違和感のない雰囲気が適度に緊張感を与える。他愛無い話を搔い摘んでは上品に笑い、ウィスキーの水割りをそっとステアする。力んでいた肩の力が弛緩していくのはアルコールのせいだろうか、それとも気品ある女性と話すことによる安心感のせいだろうか。分からないまま身体はほのかに暖まり、室内の適度に冷えた空気が心地よく感じる。

帰り際、渡された紙袋の中は確かめないままに店を出る。ひとりきり歩く金曜日の夜道には、ワイシャツの後ろ姿ばかりがやけに目立つ。街を染めるネオンの通りをゆっくりと進み、青やオレンジに染まる白い布地に甘ったるい声が塗り重ねられると、光沢を失った革靴が不規則に運動を変化させる。一つの街に幾多の靴音と人数分の物語。語られることがなければそれらは全て翌朝の目覚めとともに灰燼に帰する。そして僕はそれらのわずかな塵を掬い上げては、文字に起こす。紙袋に納められた洋菓子の甘い匂いとグラスを満たす安物の酒、連続再生される音楽に耳を澄ませながら。