実直フライドポテト

結婚式に流す曲なんだけど、と言って彼女は前髪をそっと耳にかける。「私を泣かせてください」にしようと思うの。

いや、その歌は結婚式にはふさわしくないよ。どうして?どうしてって、そもそも、どういう意味の歌詞なのか分かっているの?いいえ、でも、すごく綺麗な曲でしょう?そうだけどさ、あれは苦しみから解放されたい、そう乞い願う歌なんだよ。

へえ、と言ってつまらなさそうにポテトをひとつ摘むと、指先で端の方から平たく潰していった。彼女はストローを噛む癖があるから、トレイの上、ドリンクに突き刺さるストローは携帯のアンテナ表記みたいな、特殊な形をしていることが多い。今はホットコーヒーを飲んでいるから、きっとその代用にされたのだろう。哀れ、ポテトの運命。

一生に一度の結婚なんだから、好きな歌流すのが良いでしょう?それはそうだけどさ。でも、知っているひとからすれば、とても違和感があると思うな。それはないよ、と彼女は眉間に皺を寄せながらも、少し口角を上げる。みんなスマホ片手にバシバシ写真撮りまくるだろうから、特別音楽にこだわりはないと思う。ほら、Facebookなんかに似たような写真がいろんなひとたちからアップされる、あれだよ。出席者アピール。

まあ、好きにしたら良いよ、と僕は半ば呆れながらハンバーガーに齧りつく。みじん切りにされたタマネギが「バイト募集」の広告、笑顔の女性の真上に零れた。

旅だより

小春日和の大阪を出て、ひたすらに北上する電車の終着地は細雪がちらついていた。遠くの尾根にはまだしばらく溶け切ることもないだろう、白い冠がしっかりと残っていて、時折吹く冷たい風はこの土地に訪れるはずの春がまだ先であることを示しているようだった。

ニットにパーカー、ジャケットを羽織るだけの格好だったため、ひどく寒い。近江塩津の駅を降り、敦賀行きの電車を待つため、急勾配の階段を昇り降りし、奥行10m、幅2m程度の磨りガラスと簡素な白壁に覆われた狭い通路に待機する。ホームからは絶え間無く冷たい風が注がれるため、人々は壁際に沿ってその「簡易待合室」で一時的な寒さを凌ぐ。しばらくすると、音割れの厳しい草臥れたスピーカから電車遅延のお詫びが放送され、待合室には暗に非難する囁き声がそこかしこに聞こえ始める。強風の煽りを受けて、乗継の電車が徐行運転を余儀無くされていたためだった。いつ電車が訪れるかもわからない不安から逃れるように、僕は冷え切った手でページを捲り、活字をひたすらに追い続ける。

突然、「待合室」のトタン屋根に軽い音が響いたかと思うと、圧倒的な数を主張し始めた。幾多の雹が際限なく降り注いで、それが確かな質量と速度をもって絶え間無く音を響かせる。通路内では驚嘆するひとたちが微かにざわめき始め、時折シャッターが切られた。尚一層の激しさを増して降り注ぐ雹と、それに打ちのめされる錆の目立つトタン屋根、その下で寒さに震える人たち、耳まで覆うニット帽が揃いの老夫婦、軽装でありながら通路内のざわめきから避けんとしてホームで寒さに耐える高校生、スマートフォンを取り出しては仕舞うショートパンツの女の子、活字を追いかける僕。鳴り止まない銃声のような響きを耳にしながら、やがて訪れる温もりと速度をただひたすらに待ち続けている。

 
福井駅に向かう電車の中は子供の楽しげな声の他には遅延を謝罪する定期的なアナウンスと目的地を告げる言葉だけが満ち満ちていて、降りしきる雹の音は力強いエンジンとレールを滑る滑車の音に掻き消されていた。よもや電車を貫くことはないだろう。結露で白く染まる窓からは、雹が弾け落とされる音が、ピシピシと、耳を澄ませば微かに聞こえた。

融ける

目覚めは静かだった。陽の光がうっすらと部屋の片隅にそそがれる朝。窓の外は徐々に空の色を淡い橙色に染め始めているものの、紫色に染まる中間色のような不安さが残っている。窓を開け放つと、吐く息が白い塊になって昇華していく。冷たい空気が頬を刺し、あらゆる隙間へと注がれるようにして体を冷やしていくと、視界も思考もクリアに澄み渡るように思えた。時刻を確かめると、着古したパーカのジップを首もとまでかけ、ジャージを羽織る。ランニングシューズに足を通してから、人気の無い静かな通りを一定のテンポで走り始めた。

常に同じ道の上、同じアスファルトの上を小気味良く駆け抜ける。吐く息と踏み出す足先が重なり合うようになる頃には、つま先から目の辺りまで温まってくる。酸素を渇望する血液が体中を駆け巡りながら、それでもなお冷めたような心地でいると、頭の芯だけがいつまでも鮮明さを失わないように思えてくる。冷静。静謐。静穏。思考をかき乱すような車のエンジン音が時折響いたけれど、気づいたときにはどこかに辿り着いている。踏み出す足を交互に動かしている瞬間を切り取っていても、場面割りのカットのようにどこかで途切れてしまうような感覚。

折り返し地点である隣り街の駅に、まだ人はそう多くなかった。いつの間にか顔を出した朝日を背に、もと来た道を戻った。背中に注がれる陽の光がまだ冷たい風に晒される身体をゆっくりと温める。被っていたフードを脱ぐと、目の端にオレンジ色の光を見つけた。視線の先ではあらゆる影が形成されていく。長く伸びた鉄橋から、光で白く輝く水面を横目に走っていると、欄干に両腕を預け顎を乗せながらじっとしている女性が先に見えた。徐々に近づきながら、見知った顔であることに気づき、少し遠い場所から彼女の名前を呼ぶ。ゆったりと振り返ると、やがて驚いたような顔つきに変わる。呼び掛けられるまで気付かなかったようだ。

彼女はまたぼんやりとした表情で水面を見つめた。川辺に何か浮かんでいるのかと視線の先を追ったけれど、何も見つけられなかった。そうしてお互い無言のまま、数分が過ぎた。

「ねえ、タバコある?」

ポケットの中から歪な形になったタバコの箱を取り出すと、残り少ないその中からひとつを抜き取り、彼女に差し出した。ライターの火と朝日の光が混じり合ってから、僕の目の前で何よりも明るく輝く光が瞬間灯る。彼女の吐き出した紫煙と吐息が昇華していく。傾けてから軽く指先で叩くと、細かな灰が真白な雪の上にふわりと落ちた。彼女のブーツの足先は僕を向いている。彼女の視線は水面にあったので、僕はそちらに目を向けたけれど、ただ照りつける光だけがあった。

ひとつため息をついてから、彼女はゆっくりと歩き出した。その後ろ姿についていくように僕も歩き出す。クールダウンするには少し距離があったけれど、それほど気にはならなかった。彼女が振り返り、不思議そうな眼で僕を見つめるので、無理に作った笑みを見せる。ショートケーキの上にバランスの悪いイチゴを見つけたような顔だったかもしれない。白い指先が、短くなったタバコを僕の不自然な笑顔の隙間に挟み込む。僕が黙って見つめるていると、彼女は背を向け、二度と振り返ることはなかった。

鉄橋のケーブルから朝露が落ちる。それは昨夜の間に降っていたのであろう路面の新雪を溶かすと、さらに大きな粒となって地面に丸い小さな痕を残した。

 

It It You Think

電話越しの彼女の声は、遠く300km先から電波に乗せて信号となり、空気を媒介として僕の鼓膜を振動させ、自然言語として認識できる限り、3度同じフレーズが繰り返されていたように思うが、いずれの言葉に対しても僕は「そうだね」と素っ気なく口にし、やはり同様にしてそれらの言葉が彼女の鼓膜を震わす頃には、どうしようもなく、もどかしい、といった風にして彼女はため息を洩らすのだった。他人の感情を読み取る能力に長けているとは言えないまでも、これまでの経験則から、やはり不満なのだろうと予想することは容易く、

「いや、そうじゃなくてね。距離というのは、なんというか、それほど障害になっているとは思えないんだよ」

と、一応の返事はしてみるものの、案外こちらの予想に反して彼女の機嫌を取り戻す、ということにはならず、

「そうなら、どうして会いにきてくれないのよ」

と、より一層彼女の機嫌を損ねてしまうのが常であった。携帯電話を握りしめる彼女の手を想像しながら、その握力が通話環境に影響を及ぼさなければいいけれど、と思う。やがて諦めたように彼女は6度目のため息をこぼし、また電話するから、とつぶやくようにして電話を切った。時刻は朝の6時。日曜日だというのに、なんて騒々しいのだろう。

彼女が東京の通信事業会社に就職してから2年が経つ。大阪の都心にほど近い、独身世帯用マンションの2階、ひんやりとした台所で、僕は眠気が醒めないままぼんやりとしていた。マグカップの底にこびりつく黒いコーヒー滓をこするようにして洗いながら、ふとコーヒーをブラックで飲むようになったのはいつからだろう、と思う。 経験したはずの年月を振り返ると、色あせた映像が瞬間を切り取られた写真のように浮かび、消える。徐々に焦点を現実に引き戻しながら、やがて諦める。思い出したところで大したことではない。「忘却した」という新しい記憶を脳内のメモリに上書きする。傷のつきにくいシンクが蛍光灯の明かりをぼんやりと反射し、けれど眩しさを感じないような淡い光を僕に認識させる。勢い良く流れ出る水へと必要以上に洗剤を吸収させたスポンジをさらし、絶え間なく溢れ出るような泡を絞り出しては流す。

写真というフレーズから、不意に僕は半透明のフィルムケースを思い出す。小学生の頃、写真を残す手段はまだインスタントカメラだった当時、そのフィルムケースが実際に扱われるところを目撃した覚えはなく、手元に転がす頃には既に空だった。やがて空だった僕の手のひらに乗せられたフィルムケースが、砂時計から零れ落ちる流砂を注がれるように、じわりと質量を増していく。小刻みに振ると、小気味の良い、さらりと細かな軽い音がした。貝殻であればより雑味のある細かな音で鼓膜を震わせ、耳元に近づけては今にも消えてしまいそうな、か細い音に耳をすませていた。

そう、思い出した。

あれほど魅了され、夢中になれた時間があったことを、今の今に至るまですっかり忘れてしまっていた。いや、ただ思い出す機会がなかったということだろうか。

携帯電話を手に取り、履歴を辿って彼女を選択する。しばらく無機質な音が続いた後、通信が開始された合図のような音が瞬間聞こえる。

無音。いや、微かなノイズ。

呼吸する音。テレビかラジオから流れる暢気なBGM。室内だろうか、それとも出先だろうか。彼女は何も語らない。

「もしもし」

息を呑むような気配。けれど、言葉にならない声が洩れるだけ。

「昔のことを思い出したんだ。急だけれど、多分、今朝の電話で不意に思い出せたんだと思う」

僕は彼女の言葉を待たずに、淡々と話した。

「昔、糸電話を作って遊んでいたとき、どれくらいの長さまで声が届くのだろう、と思って沢山の糸を結んでみたことがあったんだ」

それから、どうしたの、と彼女の声。伝達しあえる喜びを瞬間噛みしめる。ただ一言が聞きたい瞬間の積み重ねを、会話と言うのだろうか。それにしては、その奇跡的な積み重ねを蔑ろにしていたように思えた。

「小学校の廊下の端と端で、当時好きだった女の子に手伝ってもらいながら、試してみた」

「積極的だね」

「当時はね。それでピンと張り詰めた糸を確かめてから、話してみた。距離にして50mはあったかと思う。放課後で僕らの他に数人しか居なくて、周りもそれほど興味がなさそうだった。邪魔するような音はほとんどない、好条件でね。すると、微かに聞こえたんだ。『聴こえるよ』という彼女の声が」

「つまり、さっきの距離が問題じゃないっていうのは、そういうことだって言いたいのね」

「いや、少し違う。それから、嬉しくなった僕は、多分、多少興奮していたんだと思う。小声で囁くように『好きです』と言ってみた」

まあ、と彼女の驚くような、面白がるような声。まるで傍で見ていたような、柔らかな感動が響く。

「けれど、彼女には届かなかった。ふと見ると、張り詰めた糸がだらりと垂れていて、途中で切れてしまっていたんだ。多分、誰かが悪戯で結び目を解いたか、切ってしまったんだと思う」

「悲しかったんだ」

「ショックではあったけれど、まあ、今にしてみれば助かったとも言える。今の僕が平穏無事に生きていられるのも、もしかしたら、あの時の糸が切れたからかもしれないし」

「縁の切れ目ってやつね」

「それは意味が違うと思う」

「それで、話はそれだけ?」

「恋の旧字体を知ってる?」

いいえ、と彼女は応えた。恐らく首を左右に10度ずつぐらいは振っただろう。彼女のその仕草、その髪の揺れ具合を思う。

「糸と糸、言うという漢字と心で作るんだけど。これって、ああ、糸電話みたいなものかなって」

「それは違うと思うけど、まあ、近いかもね」

「だから、今度はいきなり切れてしまわないように。きちんと話してしまってから、切りたいんだ。言葉にしないと、伝わらないこと、思い出したから」

「そう」

「どうかな」

「わかった。勝手に切ったりしない。だから、きちんと話しあいましょう」

「途中で切れてしまわないように」

音速の振動を幾度も繰り返しながら。

張り詰めた糸でなくても、君の声はちゃんと聴こえる。

聴こえる、ってどういうことだろう。

伝わる、とは違うんだろうか。

同じ「言葉」なのに。

まるで「心」があるみたいに。

撚り合せた糸で結びつけるように。

繋ぎ合わせていられるみたいに。

フー ハズ ノウン

昨夜の出来事について確かな記憶は残っていない。太陽の光が直接注がれ、眩しさに目を細めながら目覚めると、ぼんやりと周囲を確認する。こじんまりとした狭いフローリングの部屋には、簡素なソファと脚の短いテーブル、白い陶器のマグカップがあった。起き上がってからしばらくして、床に直に寝ていたことに気づく。右肩を下にして寝ていたのだろう、痺れと痛みを感じる。今は何時だろう、見回してみるが時計らしいものはない。ポケットの中の携帯電話は充電が切れ、真っ暗な画面に疲れ果てた顔を映していた。それにしても、と考えてみるが、まるで分からない。ここはどこなのだろう。

洗面台に向かい合い、顔を洗う。冷えた水にさらすと、徐々に体が醒めていく感覚がある。脳に近い場所に与える刺激だからだろうか。くたびれた靴下のゴムを瞬間見下ろし、手近なところにあったタオルで顔を拭う。芳香剤の香りを微かに感じる。近頃では芳香剤の効果をもった洗剤もあるのだから、一概に女性の部屋であるとは言い切れない。改めて眺め回してみるが、およそ6畳程度の部屋の中は質素な空間としか形容のしようがない。テレビ、オーディオの類いもなく、木製の背の高い棚には本が並んでいる。恐らく洋書なのだろう、見知った小説がいくつか並んでいた。

風に揺れるカーテンを開ける。足下のサンダルを履き、外の景色を眺めると、2車線の道路の反対側にくすんだマンションが見えた。8階建てのマンションの最上階がやっと見えるくらい。この部屋は高層階に近いのかも知れない。錆びの目立つ等間隔の柵から上半身だけを乗り出すようにして上を見上げる。はっきりとは見えないが、4階ほど上の階がどうやら最上階のようだった。この部屋は12階建ての8階あたり、ベランダと太陽の位置関係から北西側だろう。シャツの襟元を風が吹き抜ける。適度に心地良さを感じていた頃、不意にチャイムの音が鳴った。

二度、三度と執拗に鳴らすところからも、室内に人が居ることを確信しているようだ。呼吸が浅くなる。震える指先で応答のボタンを押す。

「どちらさまでしょうか」

上擦った声で応えてから、この部屋の住人でないことが曖昧ながら伝わった可能性について瞬間考慮し、舌打ちしたくなるが、理性で抑える。

「お届けものですが、サインをください」

野太い声がドア越しに響いてくる。インターフォンではない。廊下の先、ドアの向こうに既に待ち構えている。このまま何事も無かったように応対すれば、違和感を感じさせることはないだろう。服装を確認し、洗面台の鏡で素早く髪の乱れを整え、深呼吸を一度挟んでから、ゆっくりとドアを開ける。

小振りな荷物を抱え、眠そうな顔をしていた大柄な男は驚いたような顔を見せる。荷物の伝票を頻りに確認し、まじまじと顔を見つめてくる。口の中が乾き、唾を飲み込む音が耳の中で響く。しかし、しばらくすると、どうでもいいというような素振りでボールペンを渡し、サインする場所を指で小突く。どうせまともに読むことはないのだから、適当に書いても問題は無いだろう。書き終わってから荷物を受け取り、ありがとうと一言添えてからドアを閉めかけたとき、不意に話しかけられた。

「珍しいサインを書くんだな」

ヒヤリとして顔を上げる。不思議そうな顔で伝票を見つめる彼にかける言葉をいくつか考える。けれど、そのどれもが言い訳がましく、逆に不審を呷りかねない。何も言わずに一度だけうなずいてみせる。

「そうか、結婚したのか。おめでとう」

一瞬困惑してしまい、何の話か分からないような顔をしてしまった。それでも、納得したのかしていないのか分からないまま、彼は去っていった。ドアの鍵を閉め、一息ついた頃に額から流れる汗を拭った。

 

レストランで朝の出来事を話してしまうと、彼は無邪気に笑った。

「笑い事じゃない。それに、どうして一人きりに」

「すまなかった。一応、メールを入れておいたんだが、電源が切れては使い物にならなかったんだな」

それにしても、と言って口元を隠すようにして笑いながら、彼は続けた。

「僕はいつの間に君と結婚していたのか」

顔が紅潮していくことが分かる。目の前のパンケーキを切りもせず、一口に頬張る。メープルシロップの甘みが舌の上で広がる。この感覚が心を穏やかにしてくれたなら良いのに、と思う。フォークを置いてから、口元を拭って、彼の目を見る。

「結婚するなら日本でないと嫌なの、私」

10月の暖かな風が新緑に満ちた通りを吹き抜ける。風にそよぐ葉を見ながら、ここで過ごす二度目の「夏」を思った。

ホットケーキが焼けたなら

小振りなフライパンを手に取ってしげしげと見つめる。片手で持ち上げると見た目以上に重みがある、柄のデザインが特徴的なステンレス製。特別料理が好きなわけでもなく、調理器具にこだわるようなことは一切なかった。ただひとつ、このフライパンを除いて。

青色のバスに揺られながら都心から離れた郊外に向かう途中、つり革をつかむ僕の裾を掴みながら彼女は大学の専攻テーマについて話した。とはいえ、そのほとんどは講義の退屈さや、雑多な資料を読みあさり引用して作られたレポートの面倒さであったりした。そんな話のひとつひとつでさえ、僕には新鮮に思えた。思えば彼女が理系を離れ、今や経済学にのめり込むのだから、やはりどれだけ愚痴をこぼしてもそれなりに楽しめているのだろう。

北欧家具を専門に扱う大型モールの店内は、種々雑多のもので溢れていた。需要過多、それとも贅沢志向かな、消費者として観察すると日本人は面白いんだよ。二人並んで座っていてもなお広々としたソファに腰掛けながら、彼女はそう言って微笑んだ。カラフルなテーブル、脚のデザインが特徴的なイス、木目のTVデッキ、ひとつひとつはとても素敵なのに、部屋の中に入れたとたん、空間の狭さの中で息苦しく感じたりするの。きっと開放的というよりも閉鎖的になるからなのね、私たちの暮らす部屋が。彼女の言わんとすることがあまり要領よく掴めず、僕は曖昧にそうだね、と一言返す。ソファベッドの上で跳ね回る子供に声を荒げる母親、書斎のデスクに憧れるような目線の父親、ベビーチェアーの中でぐずる赤ん坊。喧噪の空間の中、静かに前を見つめる僕ら。

このフライパン買おう、と彼女が手に取ったそれは、二人分の料理を作るには小さすぎるように思えた。それだときっと一人分しか作れないから、効率的じゃないよ、と僕はたしなめる。いいの、このくらいで。ねえ、ホットケーキ作りましょう。それから、クレープも。私、大好きだから。別段金額が高いわけでもなく、強く断る確固とした理由もなかった。ショッピングカートも押さずに歩いていた僕は、片手にフライパン、片手に彼女の手を握った。なんだかチグハクな僕の様子を見て、彼女は可笑しそうに笑った。ねえ、蜂蜜とメープルシロップ、どっちが好き?

けれど、僕らはそれからホットケーキを食べることもこのフライパンを使うこともなかった。二人して会えば溺れるように酒を飲み、翌朝になると頭を抱えるようにして枕もとでひっそりとしていた僕らは、絵に描いたような朝食を迎えたりはしなかった。そうしてありきたりなすれ違いと一度きりの別れが訪れた。

この部屋を出て行くとき、彼女はこのフライパンのことを思い出しただろうか。それとも青色のバスを見て気づいただろうか。ある日、どこかで、誰かのために焼いたホットケーキが記憶を呼び覚ましたりするだろうか。蜂蜜とメープルシロップ、彼女はどちらを選ぶのだろうか。

ホットケーキが焼けましたよ、と言って彼女がにこやかに笑う。焼けたんじゃない、君が焼いたんだろう、と僕が言って笑う。窓から射す光が朝の透明な空気をフローリングに照らす。寝ぼけたまま作った少し苦いインスタントコーヒーを片手に、蜂蜜とメープルシロップのどちらかを手に、僕の前、空白の座席に座る彼女を待つ。音のしない、カーテンだけが揺れて動く、閉鎖的な空間で。

 

再生可能な記憶の限界値

朝目覚めると、枕元からかすかな音が聞こえていて、それは昨夜眠れなくなった頃からリピートとシャッフル再生を繰り返していた、MDプレイヤーから流れる音だと気づく。バッテリーがわずかに残る程度。けれど、通学時間に聞く分には事足りるだろう。停止のボタンを押すと、手のひらに収まる程度の小さなディスクが軋む音を立てながら徐々に回転速度を緩める。銀色のケースの表面に小さな傷跡を認めて、少しだけ落ち込む。

お気に入りの歌手が新作をリリースしては、学校からの帰り道でCDショップに向かい、綺麗に包装されたCDを少しばかり手にとり、眺めて鼓動を高める。いつもよりも少しだけ早いバスに乗り込み、丁寧に、そっとフィルムを剥がす。時折揺れるバスの座席は夏には冷えすぎていて、冬には暑くなるほどだったけれど、その瞬間だけは無音の空間で透明なテープを指先で摘む自分だけがいたような気がしていた。

録音し終わるとそれぞれの曲ひとつひとつに名前を入力する。カタカナでしかリモコンのバーに表示されることのないそれらは、丁寧さと大切さは同時に成り立つのだ、という当時の僕の信念を端的に表していた。いつしかMDディスクの数は膨大になり、それにつれて色合いも様々になった。気がつくと、収納棚は色とりどりの鮮やかな色彩で埋め尽くされ、受験の頃になると手を休めてはぼんやりと眺めていたこともあった。

これ良い曲だから聴いてみなよ、と言って友人から手渡されたMDをふと思い出す。緑色の半透明なケースで覆われたディスクには、古めかしい曲ばかりが録音されていた。ビリー・ジョエルビートルズマーヴィン・ゲイといった洋楽のほかにも、井上陽水や寺尾聡といった邦楽まで種々雑多の音楽が詰め込まれていた。

最後の曲にだけ、唯一タイトルがつけられていた。リモコンのスクリーンを「ミカンセイ」という文字が左から右へと流れていく。恐らく容量の限界まで録音されていたからだろう、その曲は途切れるようにして終わっていた。もしも僕がその曲に名前をつけるとするなら、やはりその曲のタイトルを実直に入力していただろう。彼はそうしなかった。ただそれだけのことなのに、ふと思い出すたび懐かしさと不思議な違和感のしこりを感じる。

僕はまだその曲の続きを知らない。