融ける

目覚めは静かだった。陽の光がうっすらと部屋の片隅にそそがれる朝。窓の外は徐々に空の色を淡い橙色に染め始めているものの、紫色に染まる中間色のような不安さが残っている。窓を開け放つと、吐く息が白い塊になって昇華していく。冷たい空気が頬を刺し、あらゆる隙間へと注がれるようにして体を冷やしていくと、視界も思考もクリアに澄み渡るように思えた。時刻を確かめると、着古したパーカのジップを首もとまでかけ、ジャージを羽織る。ランニングシューズに足を通してから、人気の無い静かな通りを一定のテンポで走り始めた。

常に同じ道の上、同じアスファルトの上を小気味良く駆け抜ける。吐く息と踏み出す足先が重なり合うようになる頃には、つま先から目の辺りまで温まってくる。酸素を渇望する血液が体中を駆け巡りながら、それでもなお冷めたような心地でいると、頭の芯だけがいつまでも鮮明さを失わないように思えてくる。冷静。静謐。静穏。思考をかき乱すような車のエンジン音が時折響いたけれど、気づいたときにはどこかに辿り着いている。踏み出す足を交互に動かしている瞬間を切り取っていても、場面割りのカットのようにどこかで途切れてしまうような感覚。

折り返し地点である隣り街の駅に、まだ人はそう多くなかった。いつの間にか顔を出した朝日を背に、もと来た道を戻った。背中に注がれる陽の光がまだ冷たい風に晒される身体をゆっくりと温める。被っていたフードを脱ぐと、目の端にオレンジ色の光を見つけた。視線の先ではあらゆる影が形成されていく。長く伸びた鉄橋から、光で白く輝く水面を横目に走っていると、欄干に両腕を預け顎を乗せながらじっとしている女性が先に見えた。徐々に近づきながら、見知った顔であることに気づき、少し遠い場所から彼女の名前を呼ぶ。ゆったりと振り返ると、やがて驚いたような顔つきに変わる。呼び掛けられるまで気付かなかったようだ。

彼女はまたぼんやりとした表情で水面を見つめた。川辺に何か浮かんでいるのかと視線の先を追ったけれど、何も見つけられなかった。そうしてお互い無言のまま、数分が過ぎた。

「ねえ、タバコある?」

ポケットの中から歪な形になったタバコの箱を取り出すと、残り少ないその中からひとつを抜き取り、彼女に差し出した。ライターの火と朝日の光が混じり合ってから、僕の目の前で何よりも明るく輝く光が瞬間灯る。彼女の吐き出した紫煙と吐息が昇華していく。傾けてから軽く指先で叩くと、細かな灰が真白な雪の上にふわりと落ちた。彼女のブーツの足先は僕を向いている。彼女の視線は水面にあったので、僕はそちらに目を向けたけれど、ただ照りつける光だけがあった。

ひとつため息をついてから、彼女はゆっくりと歩き出した。その後ろ姿についていくように僕も歩き出す。クールダウンするには少し距離があったけれど、それほど気にはならなかった。彼女が振り返り、不思議そうな眼で僕を見つめるので、無理に作った笑みを見せる。ショートケーキの上にバランスの悪いイチゴを見つけたような顔だったかもしれない。白い指先が、短くなったタバコを僕の不自然な笑顔の隙間に挟み込む。僕が黙って見つめるていると、彼女は背を向け、二度と振り返ることはなかった。

鉄橋のケーブルから朝露が落ちる。それは昨夜の間に降っていたのであろう路面の新雪を溶かすと、さらに大きな粒となって地面に丸い小さな痕を残した。