It It You Think

電話越しの彼女の声は、遠く300km先から電波に乗せて信号となり、空気を媒介として僕の鼓膜を振動させ、自然言語として認識できる限り、3度同じフレーズが繰り返されていたように思うが、いずれの言葉に対しても僕は「そうだね」と素っ気なく口にし、やはり同様にしてそれらの言葉が彼女の鼓膜を震わす頃には、どうしようもなく、もどかしい、といった風にして彼女はため息を洩らすのだった。他人の感情を読み取る能力に長けているとは言えないまでも、これまでの経験則から、やはり不満なのだろうと予想することは容易く、

「いや、そうじゃなくてね。距離というのは、なんというか、それほど障害になっているとは思えないんだよ」

と、一応の返事はしてみるものの、案外こちらの予想に反して彼女の機嫌を取り戻す、ということにはならず、

「そうなら、どうして会いにきてくれないのよ」

と、より一層彼女の機嫌を損ねてしまうのが常であった。携帯電話を握りしめる彼女の手を想像しながら、その握力が通話環境に影響を及ぼさなければいいけれど、と思う。やがて諦めたように彼女は6度目のため息をこぼし、また電話するから、とつぶやくようにして電話を切った。時刻は朝の6時。日曜日だというのに、なんて騒々しいのだろう。

彼女が東京の通信事業会社に就職してから2年が経つ。大阪の都心にほど近い、独身世帯用マンションの2階、ひんやりとした台所で、僕は眠気が醒めないままぼんやりとしていた。マグカップの底にこびりつく黒いコーヒー滓をこするようにして洗いながら、ふとコーヒーをブラックで飲むようになったのはいつからだろう、と思う。 経験したはずの年月を振り返ると、色あせた映像が瞬間を切り取られた写真のように浮かび、消える。徐々に焦点を現実に引き戻しながら、やがて諦める。思い出したところで大したことではない。「忘却した」という新しい記憶を脳内のメモリに上書きする。傷のつきにくいシンクが蛍光灯の明かりをぼんやりと反射し、けれど眩しさを感じないような淡い光を僕に認識させる。勢い良く流れ出る水へと必要以上に洗剤を吸収させたスポンジをさらし、絶え間なく溢れ出るような泡を絞り出しては流す。

写真というフレーズから、不意に僕は半透明のフィルムケースを思い出す。小学生の頃、写真を残す手段はまだインスタントカメラだった当時、そのフィルムケースが実際に扱われるところを目撃した覚えはなく、手元に転がす頃には既に空だった。やがて空だった僕の手のひらに乗せられたフィルムケースが、砂時計から零れ落ちる流砂を注がれるように、じわりと質量を増していく。小刻みに振ると、小気味の良い、さらりと細かな軽い音がした。貝殻であればより雑味のある細かな音で鼓膜を震わせ、耳元に近づけては今にも消えてしまいそうな、か細い音に耳をすませていた。

そう、思い出した。

あれほど魅了され、夢中になれた時間があったことを、今の今に至るまですっかり忘れてしまっていた。いや、ただ思い出す機会がなかったということだろうか。

携帯電話を手に取り、履歴を辿って彼女を選択する。しばらく無機質な音が続いた後、通信が開始された合図のような音が瞬間聞こえる。

無音。いや、微かなノイズ。

呼吸する音。テレビかラジオから流れる暢気なBGM。室内だろうか、それとも出先だろうか。彼女は何も語らない。

「もしもし」

息を呑むような気配。けれど、言葉にならない声が洩れるだけ。

「昔のことを思い出したんだ。急だけれど、多分、今朝の電話で不意に思い出せたんだと思う」

僕は彼女の言葉を待たずに、淡々と話した。

「昔、糸電話を作って遊んでいたとき、どれくらいの長さまで声が届くのだろう、と思って沢山の糸を結んでみたことがあったんだ」

それから、どうしたの、と彼女の声。伝達しあえる喜びを瞬間噛みしめる。ただ一言が聞きたい瞬間の積み重ねを、会話と言うのだろうか。それにしては、その奇跡的な積み重ねを蔑ろにしていたように思えた。

「小学校の廊下の端と端で、当時好きだった女の子に手伝ってもらいながら、試してみた」

「積極的だね」

「当時はね。それでピンと張り詰めた糸を確かめてから、話してみた。距離にして50mはあったかと思う。放課後で僕らの他に数人しか居なくて、周りもそれほど興味がなさそうだった。邪魔するような音はほとんどない、好条件でね。すると、微かに聞こえたんだ。『聴こえるよ』という彼女の声が」

「つまり、さっきの距離が問題じゃないっていうのは、そういうことだって言いたいのね」

「いや、少し違う。それから、嬉しくなった僕は、多分、多少興奮していたんだと思う。小声で囁くように『好きです』と言ってみた」

まあ、と彼女の驚くような、面白がるような声。まるで傍で見ていたような、柔らかな感動が響く。

「けれど、彼女には届かなかった。ふと見ると、張り詰めた糸がだらりと垂れていて、途中で切れてしまっていたんだ。多分、誰かが悪戯で結び目を解いたか、切ってしまったんだと思う」

「悲しかったんだ」

「ショックではあったけれど、まあ、今にしてみれば助かったとも言える。今の僕が平穏無事に生きていられるのも、もしかしたら、あの時の糸が切れたからかもしれないし」

「縁の切れ目ってやつね」

「それは意味が違うと思う」

「それで、話はそれだけ?」

「恋の旧字体を知ってる?」

いいえ、と彼女は応えた。恐らく首を左右に10度ずつぐらいは振っただろう。彼女のその仕草、その髪の揺れ具合を思う。

「糸と糸、言うという漢字と心で作るんだけど。これって、ああ、糸電話みたいなものかなって」

「それは違うと思うけど、まあ、近いかもね」

「だから、今度はいきなり切れてしまわないように。きちんと話してしまってから、切りたいんだ。言葉にしないと、伝わらないこと、思い出したから」

「そう」

「どうかな」

「わかった。勝手に切ったりしない。だから、きちんと話しあいましょう」

「途中で切れてしまわないように」

音速の振動を幾度も繰り返しながら。

張り詰めた糸でなくても、君の声はちゃんと聴こえる。

聴こえる、ってどういうことだろう。

伝わる、とは違うんだろうか。

同じ「言葉」なのに。

まるで「心」があるみたいに。

撚り合せた糸で結びつけるように。

繋ぎ合わせていられるみたいに。