フー ハズ ノウン

昨夜の出来事について確かな記憶は残っていない。太陽の光が直接注がれ、眩しさに目を細めながら目覚めると、ぼんやりと周囲を確認する。こじんまりとした狭いフローリングの部屋には、簡素なソファと脚の短いテーブル、白い陶器のマグカップがあった。起き上がってからしばらくして、床に直に寝ていたことに気づく。右肩を下にして寝ていたのだろう、痺れと痛みを感じる。今は何時だろう、見回してみるが時計らしいものはない。ポケットの中の携帯電話は充電が切れ、真っ暗な画面に疲れ果てた顔を映していた。それにしても、と考えてみるが、まるで分からない。ここはどこなのだろう。

洗面台に向かい合い、顔を洗う。冷えた水にさらすと、徐々に体が醒めていく感覚がある。脳に近い場所に与える刺激だからだろうか。くたびれた靴下のゴムを瞬間見下ろし、手近なところにあったタオルで顔を拭う。芳香剤の香りを微かに感じる。近頃では芳香剤の効果をもった洗剤もあるのだから、一概に女性の部屋であるとは言い切れない。改めて眺め回してみるが、およそ6畳程度の部屋の中は質素な空間としか形容のしようがない。テレビ、オーディオの類いもなく、木製の背の高い棚には本が並んでいる。恐らく洋書なのだろう、見知った小説がいくつか並んでいた。

風に揺れるカーテンを開ける。足下のサンダルを履き、外の景色を眺めると、2車線の道路の反対側にくすんだマンションが見えた。8階建てのマンションの最上階がやっと見えるくらい。この部屋は高層階に近いのかも知れない。錆びの目立つ等間隔の柵から上半身だけを乗り出すようにして上を見上げる。はっきりとは見えないが、4階ほど上の階がどうやら最上階のようだった。この部屋は12階建ての8階あたり、ベランダと太陽の位置関係から北西側だろう。シャツの襟元を風が吹き抜ける。適度に心地良さを感じていた頃、不意にチャイムの音が鳴った。

二度、三度と執拗に鳴らすところからも、室内に人が居ることを確信しているようだ。呼吸が浅くなる。震える指先で応答のボタンを押す。

「どちらさまでしょうか」

上擦った声で応えてから、この部屋の住人でないことが曖昧ながら伝わった可能性について瞬間考慮し、舌打ちしたくなるが、理性で抑える。

「お届けものですが、サインをください」

野太い声がドア越しに響いてくる。インターフォンではない。廊下の先、ドアの向こうに既に待ち構えている。このまま何事も無かったように応対すれば、違和感を感じさせることはないだろう。服装を確認し、洗面台の鏡で素早く髪の乱れを整え、深呼吸を一度挟んでから、ゆっくりとドアを開ける。

小振りな荷物を抱え、眠そうな顔をしていた大柄な男は驚いたような顔を見せる。荷物の伝票を頻りに確認し、まじまじと顔を見つめてくる。口の中が乾き、唾を飲み込む音が耳の中で響く。しかし、しばらくすると、どうでもいいというような素振りでボールペンを渡し、サインする場所を指で小突く。どうせまともに読むことはないのだから、適当に書いても問題は無いだろう。書き終わってから荷物を受け取り、ありがとうと一言添えてからドアを閉めかけたとき、不意に話しかけられた。

「珍しいサインを書くんだな」

ヒヤリとして顔を上げる。不思議そうな顔で伝票を見つめる彼にかける言葉をいくつか考える。けれど、そのどれもが言い訳がましく、逆に不審を呷りかねない。何も言わずに一度だけうなずいてみせる。

「そうか、結婚したのか。おめでとう」

一瞬困惑してしまい、何の話か分からないような顔をしてしまった。それでも、納得したのかしていないのか分からないまま、彼は去っていった。ドアの鍵を閉め、一息ついた頃に額から流れる汗を拭った。

 

レストランで朝の出来事を話してしまうと、彼は無邪気に笑った。

「笑い事じゃない。それに、どうして一人きりに」

「すまなかった。一応、メールを入れておいたんだが、電源が切れては使い物にならなかったんだな」

それにしても、と言って口元を隠すようにして笑いながら、彼は続けた。

「僕はいつの間に君と結婚していたのか」

顔が紅潮していくことが分かる。目の前のパンケーキを切りもせず、一口に頬張る。メープルシロップの甘みが舌の上で広がる。この感覚が心を穏やかにしてくれたなら良いのに、と思う。フォークを置いてから、口元を拭って、彼の目を見る。

「結婚するなら日本でないと嫌なの、私」

10月の暖かな風が新緑に満ちた通りを吹き抜ける。風にそよぐ葉を見ながら、ここで過ごす二度目の「夏」を思った。