ホットケーキが焼けたなら

小振りなフライパンを手に取ってしげしげと見つめる。片手で持ち上げると見た目以上に重みがある、柄のデザインが特徴的なステンレス製。特別料理が好きなわけでもなく、調理器具にこだわるようなことは一切なかった。ただひとつ、このフライパンを除いて。

青色のバスに揺られながら都心から離れた郊外に向かう途中、つり革をつかむ僕の裾を掴みながら彼女は大学の専攻テーマについて話した。とはいえ、そのほとんどは講義の退屈さや、雑多な資料を読みあさり引用して作られたレポートの面倒さであったりした。そんな話のひとつひとつでさえ、僕には新鮮に思えた。思えば彼女が理系を離れ、今や経済学にのめり込むのだから、やはりどれだけ愚痴をこぼしてもそれなりに楽しめているのだろう。

北欧家具を専門に扱う大型モールの店内は、種々雑多のもので溢れていた。需要過多、それとも贅沢志向かな、消費者として観察すると日本人は面白いんだよ。二人並んで座っていてもなお広々としたソファに腰掛けながら、彼女はそう言って微笑んだ。カラフルなテーブル、脚のデザインが特徴的なイス、木目のTVデッキ、ひとつひとつはとても素敵なのに、部屋の中に入れたとたん、空間の狭さの中で息苦しく感じたりするの。きっと開放的というよりも閉鎖的になるからなのね、私たちの暮らす部屋が。彼女の言わんとすることがあまり要領よく掴めず、僕は曖昧にそうだね、と一言返す。ソファベッドの上で跳ね回る子供に声を荒げる母親、書斎のデスクに憧れるような目線の父親、ベビーチェアーの中でぐずる赤ん坊。喧噪の空間の中、静かに前を見つめる僕ら。

このフライパン買おう、と彼女が手に取ったそれは、二人分の料理を作るには小さすぎるように思えた。それだときっと一人分しか作れないから、効率的じゃないよ、と僕はたしなめる。いいの、このくらいで。ねえ、ホットケーキ作りましょう。それから、クレープも。私、大好きだから。別段金額が高いわけでもなく、強く断る確固とした理由もなかった。ショッピングカートも押さずに歩いていた僕は、片手にフライパン、片手に彼女の手を握った。なんだかチグハクな僕の様子を見て、彼女は可笑しそうに笑った。ねえ、蜂蜜とメープルシロップ、どっちが好き?

けれど、僕らはそれからホットケーキを食べることもこのフライパンを使うこともなかった。二人して会えば溺れるように酒を飲み、翌朝になると頭を抱えるようにして枕もとでひっそりとしていた僕らは、絵に描いたような朝食を迎えたりはしなかった。そうしてありきたりなすれ違いと一度きりの別れが訪れた。

この部屋を出て行くとき、彼女はこのフライパンのことを思い出しただろうか。それとも青色のバスを見て気づいただろうか。ある日、どこかで、誰かのために焼いたホットケーキが記憶を呼び覚ましたりするだろうか。蜂蜜とメープルシロップ、彼女はどちらを選ぶのだろうか。

ホットケーキが焼けましたよ、と言って彼女がにこやかに笑う。焼けたんじゃない、君が焼いたんだろう、と僕が言って笑う。窓から射す光が朝の透明な空気をフローリングに照らす。寝ぼけたまま作った少し苦いインスタントコーヒーを片手に、蜂蜜とメープルシロップのどちらかを手に、僕の前、空白の座席に座る彼女を待つ。音のしない、カーテンだけが揺れて動く、閉鎖的な空間で。