再生可能な記憶の限界値

朝目覚めると、枕元からかすかな音が聞こえていて、それは昨夜眠れなくなった頃からリピートとシャッフル再生を繰り返していた、MDプレイヤーから流れる音だと気づく。バッテリーがわずかに残る程度。けれど、通学時間に聞く分には事足りるだろう。停止のボタンを押すと、手のひらに収まる程度の小さなディスクが軋む音を立てながら徐々に回転速度を緩める。銀色のケースの表面に小さな傷跡を認めて、少しだけ落ち込む。

お気に入りの歌手が新作をリリースしては、学校からの帰り道でCDショップに向かい、綺麗に包装されたCDを少しばかり手にとり、眺めて鼓動を高める。いつもよりも少しだけ早いバスに乗り込み、丁寧に、そっとフィルムを剥がす。時折揺れるバスの座席は夏には冷えすぎていて、冬には暑くなるほどだったけれど、その瞬間だけは無音の空間で透明なテープを指先で摘む自分だけがいたような気がしていた。

録音し終わるとそれぞれの曲ひとつひとつに名前を入力する。カタカナでしかリモコンのバーに表示されることのないそれらは、丁寧さと大切さは同時に成り立つのだ、という当時の僕の信念を端的に表していた。いつしかMDディスクの数は膨大になり、それにつれて色合いも様々になった。気がつくと、収納棚は色とりどりの鮮やかな色彩で埋め尽くされ、受験の頃になると手を休めてはぼんやりと眺めていたこともあった。

これ良い曲だから聴いてみなよ、と言って友人から手渡されたMDをふと思い出す。緑色の半透明なケースで覆われたディスクには、古めかしい曲ばかりが録音されていた。ビリー・ジョエルビートルズマーヴィン・ゲイといった洋楽のほかにも、井上陽水や寺尾聡といった邦楽まで種々雑多の音楽が詰め込まれていた。

最後の曲にだけ、唯一タイトルがつけられていた。リモコンのスクリーンを「ミカンセイ」という文字が左から右へと流れていく。恐らく容量の限界まで録音されていたからだろう、その曲は途切れるようにして終わっていた。もしも僕がその曲に名前をつけるとするなら、やはりその曲のタイトルを実直に入力していただろう。彼はそうしなかった。ただそれだけのことなのに、ふと思い出すたび懐かしさと不思議な違和感のしこりを感じる。

僕はまだその曲の続きを知らない。