ヒストリカルサイン

彼女の名前を口にするたび、僕はひどく奇妙な心地がした。それは具現化できるものではなく、誰もが目にしたことがないにもかかわらず、一つの概念として理解されていたからであり、そうした呼称で呼ばれることを彼女はあまり気に入っていなかったにもかかわらず、僕には名前で呼ぶことを強制させていた。いかにして彼女がその名前を受け止め、自分のものにしようとしたのかは定かではない。そもそも、名前というものは生まれる前から既に決めつけられていた、本人の意志に反した暴力的なものであり、抗いようもなく、自己のアイデンティティを主張するためにはもっぱら自らが受けた暴力の辛辣さを裁判所で答弁せねば変えようがないという、非常に不合理な問題を抱えている。ともすれば、僕自身も自分の名前について深く傷つけられる可能性が十分にあったということだが、幸いにして僕の名前は世間一般にひどく広まっている、つまりはありきたりなものであったから、彼女の心の奥深くにある闇にはついぞ届くことはなかった。
 
彼女にとっての名前とは、どういった人物であるのかを世間から評価される際に、見かけだけでなく自らに課せられた暴力的な罰であったようだ。彼女は本名ではなく、ニックネームのような創作された名前で呼ばれることを好んだ。そうして自らに名付けられたそれを加工することで、救済を望む。名付けられた名前の意味やニュアンスには多少の偏りが生じるからだ。ねえ、わかるでしょう。私は自分を嫌っている訳ではないの。「私を表す私の意思の及ばないもの」が嫌いなのよ。彼女はまるで何度も繰り返されてきた言葉を述べ上げるように、淀みなく僕に話してはその度涙を流すのだった。彼女の涙は僕に何かしらのメタファーを思わせたけれど、それが何かは分からなかった。
 
涙は必ず瞳から流れ落ちる。それは絶え間なく流れることもあれば、止まれ、と強く念じることで徐々に勢いを失くしていくこともある。時として、それをただ身を委ねるようにして流すと、軌跡はひとつの流れを作り、やがて流れる全てはその経路に沿う。二つとして別れることは無い。重力に逆らうことが出来ないように、水滴となり、加速も減速もしない速度で地表へと落下する。彼女の涙を掬えたとしてそれがなんだというのだろう。地表が僕の指先に、冷たいアスファルトが体温を伝える皮膚に変わっただけ。いくつもの理性が僕の行動をことごとく否定する。
 
理性で割り切れない問題を僕は嫌う。心は存在しない。脳内で行われる信号のやり取りが心臓に一定の負荷をかけ、血液の流動を促し、ポンプとして稼働する役割を自己に再認識させること。それは心ではない。否定を経てひとつの肯定へと辿り着く。ロックアイスが丸みを帯びるようにしてグラスの中身を薄める。汗をかいたグラスが間接照明の明かりを内側に透過させると、ウィスキーの色と混ざり合い、表と裏がひとつになる。表と裏。どちらが本質なのだろう。信号を送る体内と信号を受信する体表。
 
彼女とかわす言葉のひとつひとつは懐かしく僕の体温をわずかに上昇させる。それはアルコールによるものだけではないだろう。僕らはどれだけ深く関わり合い、深く抱き合えば、他人で居られなくなるのだろう。全て二筋の軌跡に沿って。
 
他者から愛されることを望む自分を嫌い、恋い焦がれる自分を愛さない他者を嫌う。両方が成り立つとすれば、僕はどちらの自分を騙すのだろう。一息に話してしまってから、僕はグラスに口をつける。唇で留めるようにしていた氷が、口の中に転がり落ち、小さくなったそれを噛み砕く。愛はきっとあまりに公にさらされることがないものだから、きっと処女性を求められるのね。卑しい、そのイメージにそぐわないものは断じて許諾されないの。彼女は微笑んで僕に応える。望めば遠のき、失くせば二度と元には戻らない。再生されることがなくて、作り変えられることも出来ない。こんなに不都合なことなのに、どうして私たちは途方もない意味を求めてしまうのかな。彼女の口角が一瞬広がったように見えた。けれど、それは幻想だったかもしれない。確かな記憶は記録されず、薄れてしまう。儚いとはこういうことなのだろうか。彼女の指先に触れ、伝わる体温でさえやがて忘れてしまうのなら。
 
お前は何かを失くしたりしたことがないんだよ、と友人は口にして、手酌した日本酒を傾ける。何かを失くすことに慣れていないから、それを「喪失」とは表現せずに「消失」と変換して、自分が傷つくことを極端に避けているんだ。賞味期限が切れるのは保存管理者の責任ではなく、食品の賞味限界に問題があるとしているのさ、例えるならな。そうかもしれない、と僕は曖昧に返事をする。けれど、そのふたつに隔たりがあるとして、本質に関わりのある問題だろうか。口にせずに考えていると、見透かすようにして友人は僕の目を覗き込む。ああ、ふたつにそれほど明確な違いは無いように思えるよ、確かにな。いずれにせよ物事はなくなる。 目の前から、あるいは思考することから。断片的な記憶としてぼんやりとしていくだろう。言ってしまえばただの「記号」でしかないのだから、当然といえばそれまでだ。けどな、といって友人は僕の猪口に安酒を注ぐ。けどな、記号でないものなんて俺らの周りにひとつでもあるのか。
 

オブジェとしての彼女

 ふとしたときに美術館へ足を運ぶ。隣に彼女がいたのなら、例えば手をつなぎながら目の前の作品のひとつひとつについて互いに感想を交わすだろうか、と考える。彼女ならどう評するだろうか、と。現実的でない、と切り捨てるだろうか。それともただただ無言のままうなずいたりするのだろうか。ひと一人分のエスカレータで手すりを掴みながらふと思う。
 
展示されていたのは彫刻の作品ばかりで、中には古めかしくブロンズで作り上げられ、時間とともに酸化して独特の緑色へと変色した人物像や、木を削り上げられたオブジェ、金属の無機質さと特有の精巧さで魅了するものがあった。ひとしきり観ていると、あるオブジェに目が留った。規則的でありながら不均一な楕円形で削られた、直径2mはあろうかという木の幹で、中は空洞になっていた。その幾多の楕円形の連なりによって向こう側を見通すことが出来る。空洞であることに何かしらの意味が込められているのかもしれない。けれど、僕にはそれが何かが分からなかった。ただひとつ、空虚である、ということがひとつの意味として成り立つということだった。空であることを証明するすべは、それを覆う容器が必要になる。容器が無くてはそれが空虚であることを示すことが出来ない。僕らはそうして何もかもにも名前をつけている。空気、あるいは存在しなければ真空、囲えば空。記号として共有できないものを探すこと、それは個人の感性かもしれない。けれど、もしそれが完全に共有しあえないとして、どうして芸術の中に何かを見いだそうとしているのだろう。そうした自己矛盾について考えることが僕は好きだ。決して辿り着かない思考の果てを目指して延々と彷徨う。
 
思考の途中、そこには彼女がいる。しばらく佇み、僕が近づくとやがて離れ、けれど視線の先からは消えない。逆光に立ちすくむようにする彼女の姿は輪郭でしか捉えられない。僕はそれが彼女だと分かる。肩から腕にかけて流れる曲線、胸の膨らみ、綺麗なカーブを描く腰から太もも、ふくらはぎにかけてのライン。ひとつひとつは目を閉じていても描くことが出来る。ただひとつ、彼女がそのときどんな表情をしているのか、それだけが上手く描けなかった。想像の中の彼女はいつでも輪郭だけの存在で、白い大理石が放つ光のように、内側からぼんやりと光っていた。

別れに最適な木曜日

失恋に適した日があるとするなら、木曜日だろうと思う。木曜日の夕方、曇り空の街並には何かの兆候のように雨が降り出し、ろくに天気予報も見ないまま家を出た僕の頭を、肩をじわりじわりと濡らしていくと、やがてそれが合図であったかのように彼女はさよなら、と口にする。彼女が握る木製の傘の柄は車のヘッドライトのつややかな光を時折反射させていて、華奢な彼女の輪郭をぼんやりと雨の匂いで満ちる街角に滲ませる。ひとつ、ふたつと瞬きをすると僕の睫毛にしがみつくようにしていた雨粒がスニーカーの先で弾け、拡散し、コンクリートの上で幾多の波紋を描く。うつむくようにしていた僕の上にも容赦なく降り注ぐ雨。けれど彼女は傘を差し出すことはない。今日は木曜日だから、そう言って彼女はヒールの踵を小気味よく3度鳴らす。飛び散る雨粒が歩道の側、溝の中へと吸い込まれ、行き先を知らない濁流に飲み込まれ、やがてひとつになり、消える。

海はどうして青いの。それは光の波長が影響していて、反射すると青い光の波が散乱して拡散するからだよ。そう、空の色が映るわけじゃなかったのね。うん、でも太陽の光が影響しているわけだから、まったく無関係というわけでもないよ。複雑なんだ。というより、複雑だ、と認識することが複雑なんだよ、単純に光の波長が影響していてそれは太陽光によるものだ、とそれだけを考えたら良いんだから。

ひとしきり降り注いだ雨は短い間だけ続き、やがて止んだ。うつむくようにしていた僕が視線を上げると、もう彼女はそこにはいない。道の先にはどこまでも舗装されたアスファルトだけが延々と続いている。そして、僕はあのとき言いそびれた言葉を思い出す。

水たまりが青く見えないのはそこに適度な深さが無いから。

拡散するほどの青さは広がらず、底に広がる色に程近い色としか僕らは認識することが出来ない。

やがて流れ着く先で完全な青を手に入れるまで、アスファルトのくたびれた黒色の上をただ揺れる。

そして僕らは別れる。木曜日だから、と。

アバウト ア ライト

0時を過ぎると、シンデレラの魔法は解ける。港町を見渡せる公園から見える夜景を目の前に、ふとそうしたことを思い出す。時刻は23時。

深夜の中華街は賑やかであったであろう空気を微塵も残さない。最小限に抑えられた照明は深夜に至ってもなお営業されている店だけを煌々と照らし出す。宵闇の中で不特定多数に示された明かりは、しかし道の名も知らぬものにとっての道しるべ、寄る辺となる。ともすれば異国の地に足を踏み入れたような錯覚に陥いり、景色を見ていながらその輪郭は曖昧なものになっていく。波長の長い赤色の光線は遠くからでもはっきりとそれと確認することができる。目に留まるものは限りなく赤。

中華街をひとしきり散策すると、まだ活力を失わない足はやがて坂道へ向かう。二日酔いに似たアルコールの残滓は踏み出す足先からじんわりと地面に染み込んで拡散する。途中に行く手を阻むようにしてそびえる樹は、コンクリートで丁寧に舗装された歩道のタイルを剥がしていた。根元はどこまで深く掘り下げられているのだろうか。見上げると高い場所から枝葉を空高くまで伸ばしていることが分かる。これと同じだけの根が地中に埋まっているのであれば、坂道のほとんどは木の根によって支えられているのかもしれない、と思う。

夜景を目の前にすると、その明かりの中で蠢くもの、静止したままで光を放つもの、発生源が定かでない音を鳴らすものがそれぞれに共存し、けれど干渉していないことに気づく。いずれの物質も人工的でありながら元は自然の産物であったもの。加工されることが自然でないという定義はどの程度まで通じるのだろう。いずれも大地から産出されたものであるというのに。そんなことをぼんやりと思う。背丈の高い建物は赤灯を規則的に明滅させる。やがて時計の針が0時を示すころ、この街一番の高さを誇るタワーが灯りを消し、一日の終わりを、見守る誰かに示した。

真昼の夢とノンフィクションメーカー

ファミリィレストランのテーブルに妙齢を過ぎたであろう女性たちが5人、集団を形成している。彼女たちの話し方は独特だ。発言者の声は途中途中で遮られ、それが非難されることもない。断続的な内容であっても彼女たちにはさほど影響しないようで、それは恐らく理解されることではなく「発言した」という事実を上塗りし続けることを「会話」と定義しているからだろうと思う。鉄板がお熱いのでお気をつけください、と店員が僕の目の前にドリアを差し出す。スプーンでひと掬いし冷ますようにしていたころ、不意に誰かが語り始めた。僕は聴衆のひとりに紛れてそっと耳を傾ける。

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私の友達がね、そう彼女は電車に揺られて旅をしていたの。旅先は国内ね、どこだったかは覚えていないんだけど、とにかくそのときはひとりきりだったの。それで、偶然隣り合った席に男の人が座ってね、なんとはなしに、でも少しだけ気になるくらいだったのかもしれない。あのひと、いろんなところを覚えていたから。そうしたら、彼から話しかけられたの、どちらへであるとか、旅行は良いですね、なんていう世間話のようなもの。そうしてしばらく話してしまうと、彼は途中の駅で降りてしまったの。ああ、一期一会みたいなものだ、と彼女は思ったんだって話してた。

それから1週間後、海外行きの飛行機のリクライニングに手こずっていたとき、隣の座席に腰を下ろしかけた人から声をかけられたの。大丈夫ですか、なんてね。振り返るとあの時の彼がいたの。偶然乗り合わせた電車といい飛行機といい、これは運命じゃないのかなってふたりして話したそう。以前よりも会話の内容はより親密になったけれど、そこから先へと進むことはなかった。きっとどこかお互いに疑うところがあったのかもしれない。飛行機が着陸して混雑する通路の中で簡単な別れの挨拶をした後、荷物待合室をぐるりと眺めたけれど、もう彼はいないようだった。

そんな話をしばらくしてから日本の友人に話したところ、彼女が驚いて言ったの、私、その人知っているかも、と。聞くと、仕事の関係でいくつかの取引先と交流する機会がその人にはあるらしくて、話を聞く限り「それらしい」人を思いついたんですって。聞くや否や電話である取引先の担当者にそういう人がいるか確認してもらったところ、やはり彼だった。もうふたりは疑うことなくそのまま結婚したの。それが先週のこと。

ねえ、だから私の言いたいことわかるでしょう。いつ何時どんな出会いがあるかなんて分からないの。だから、そうした運命をたぐり寄せるためには憮然とした表情を浮かべてはいけないの。そういう人のもとには運命は訪れないから。これは彼女の受売りなんだけどね。

ねえ、ドラマティックじゃない?

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時折零れる感嘆の声やため息がテーブルの上を漂う。彼女たちは恐らくそうした「運命的な出会い」に恋い焦がれているのだろう。非日常的であって思い描くドラマのようなシナリオ。主演女優である自分に降り掛かる「運命」という翻弄と刺激に満ちたドラマ。

憧れの対象がフィクションのような現実である限り、フィクションを描いては見知らぬ誰かの感動を呼び起こす。それはもちろん、人間以外の誰も行わない。

人間だけが醒めながら夢を見る。

子供と大人

賢いということは子供であるということ。成長することが賢さを生み出すのではなく、むしろ大人になるにつれてひとは賢さを失う。

安物の酒を飲みながら読んでいたにも関わらず、酔い気が醒めてしまう言葉の連続。いままでのどんな休日よりも刺激的な知識の貯蔵は、イタリアンレストランのこじんまりとしたテーブル席で行われた。ポタージュスープとドリア、程よくしなびたほうれん草のソテーを添えて。

賢くなりたいと願うことは、賢くないことを自負しているのであってそれは「知る」という客観的な評価においては「賢さ」の表れではある。けれど往々にして他人とその評価について共有あるいは再評価を行うことは難しい。すなわち主観の発生を意味するからだ。そこには絶対的な知識保有の証明が必要となる。それを達成できた人間は少なくとも現実の世界では見受けられない。

いわゆる天才だろうと思う。

しかしそうした人間であって唯一生きることが出来るのが「小説」であり、フィクションであろうと思う。いかなる障壁も「言語」という共通の記号を認識し合うことが出来るのであれば、そこには望まれた人間を誕生させることが出来る。ただ一つの条件は、それを表現する著者の技巧と能力によるものだろう。またしてもそこには評価が生まれ、絶え間ないジレンマの発生を予感させる。

森博嗣先生の作品に出会い、こうした天才の小説内における存在についての説明が細かな描写とともになされる度、彼こそが天才なのではないかと思わずにはいられない。そこには想像による補完と飛躍的発想による創造が彼の作品と彼の「灰色の脳細胞」の中に介在しているからに他ならない。これを羨望せずにいられないのは一読者の宿命ではないかと思う。

生死について思考され言語化される様々な表現の中にあって、いずれの論も「殺人や自死は必ずしも否定されるべきものではない」というテーマを含んでいる。否定的立場の論者はそれらが社会という枠組みの中に存在する以上、その調和を乱すべきではないと考え、説いている。しかし、社会を作り出しその中で生きることを選択できるのは、社会の中で生活を営みながら「自己の精神が他人に脅かされることを積極的に望まない」者だけ。つまり、この世界に生まれて間もなくの人間には追いつくことの出来ないルールによる。自由の束縛による社会の安寧を計るのは、常に大人であるということ。逸脱し飛躍的な行動を害とする者。

子供だけがその縛りに捕われない。大人だけがその行動に意味を見いだそうとする。

縛られた世界の作られたルールに沿って。

そう考えてみると、大人が作り出した「常識」と呼ばれる枠組みとは無関係の思考で生きることが出来る「子供」という存在は、確かに賢いと思える。彼らには「常識」という作られた概念はない。生まれて間もなく「感情」を訴える手段を知り、説明のなされない「言語」という記号を想像力により習得し、世界のあらゆる事象をありのままにインプットする。大人だけがその意味や有意義さを自己の解釈により評価し、排除する。それらは成長による「知識」と呼ばれる常識の取得によるもの。そうであるならば、果たして大人は本当に賢いと呼べるのだろうか。それはあくまでも社会における拘束された条件の中における共通の認識でしかないのではないか。

彼はそうした禅問答を作品の中で幾度となく繰り返す。我々読者はその一部分に残される「理解しうる思考回路」を自己の中にトレースし、咀嚼し、吸収しようとする。そこにはただ「知りたい」という知識欲しかない。

生命が誕生するとして、先に存在するのは精神だろうか、肉体だろうか。そんなことをぼんやりと考えてみる。あるいはこうした新種の知識を貯えることで、僕は賢さを少しずつ失っているのだろうか。それはまるで二律背反の様に。途方もなく思考され続ける、日曜日の夜。

花火

今日は淀川で花火大会が行われるということで、これだけは近場であったことを幸運に思わずにはいられないのだけど、嬉々として家を出た。確か昨年はそれほど側には近づかずに、沿道の側で建物の後ろで咲く花火を見ていたと思う。今年はより近づいて、いっそ点火台が見えるところまで、と意気込む。

今夏は例年にないくらいの猛暑であるから、家を出てものの数分でTシャツが身体にへばりつく。憂鬱なことは全部夜の海に脱ぎ捨てて、と桜井さんの歌声を思い出す。浴衣に彩られた女性の後ろ姿を追いかけるようにして会場へ向かう足取りはそれでいて軽い。

1 時間前だというのに既に会場には今か今かと待ちわびる人で埋め尽くされていた。淀川の対岸に架かる高速道路と東海道本線の側で、暮れかかる夕日の明かりを頼りに本を読む。犯人を追いつめるクライマックスのシーンのあたりでしおりを挟み、しばらくすると先に光が届き、後から音が胸の辺りを震わせるようにして響いてきた。見上げるといくつかが打ち上げられていて、けれどそれらの形作られた花は架橋に遮られて良くは見えなかった。この場所を選ぶべきではなかったと思う。いくつかの花火をそのままやり過ごしてから、なぜだか妙に落ち着かなくなる。そうして、あれほどまで楽しみにしていたのにも関わらず、飽きが訪れた。一足早く。

帰ろうとすると、同じように帰路につく人たちが目立つことに気づく。もしかしたらどこかに適当なスペースが見つかるかもしれない。そう思い、集団とは逆の進路を進む。新しい希望で上塗りすることは、気持ちの誤摩化しだろうか、それとも新たな欲求の開発なのだろうか。

遮蔽物のない花火の形は想像以上に丸く、大きく、鮮やかだった。その軌跡が螺旋を描くように闇の中を昇っていく様子を見ながら、ピストルのように筒の穴の中に刻まれた螺旋の溝を想像する。そうした構造の一手間あるいは工夫が上昇する火薬に安定性をもたらしているのだろう。開く瞬間の円形が重力によりやや楕円形に近づき、いくつかの花火は瞬間消えると別の火薬に点火し彩りをかえ、闇の中を縦横無尽にさまよい、散った。そうした繰り返される動きは目で追いながら見た経験のある何かに置き換えようと考えさせられる。花、生物、無生物、あるいはキャラクタ。想像の追いつかないものだけがそれが「花火」としての目的を満たす。

全ての光には演出が施され、計画的な打ち上げ順が事細かに決められているのだろう。集団はやがて訪れる「終わり」が 連発的でいて「これまで以上に壮大なもの」であることを期待しないではいられない。何度も繰り返された「終わり」を目の前にしながら、さらなる「終わり」 を期待するのはなぜだろう、と思う。いや、むしろ期待しているのは「始まり」であるからかもしれない。散る花は美しい、とは想像していないのだろう。だから、瞬間の命を半永久的に保存する技術を手にして、その造形をメモリに、信号に置き換えていく。時間の流れを無視すれば、媒体の中で命は生き続けるのかもしれない。おそらくはそれを認識できる誰かがいる限り。高架下で見上げながら、反響する轟音が身体を文字通り震わせる。

ひとりきりの視線は見ず知らずの人々のそれと交錯しては解け合うことなく散開し、まもなく伏せられた。空を見上げることはそれほど多くない。伏し目がちな帰り道はいつもよりもゆっくりと家路へ向かう僕の足先を見つめ、ふとしたときに思い出す夏の星座を探させた。火薬の匂いと誰かが吐き出した紫煙の煙たさを思い出しながら。